Lyrical Ballads

郵便局と蛇: A・E・コッパード短篇集 (ちくま文庫)

郵便局と蛇: A・E・コッパード短篇集 (ちくま文庫)


コッパードはラブクラフトのように神話を創るわけでもなく、ブラックウッドのようにオカルトに深入りもせず、M.P.シールのように知識に淫しもせず、コリアのようにオチが冴えるわけでもなく、マクラウドのように伝説を蘇らせるわけでもなく、デ・ラ・メアのように無垢のまなざしを持つわけでもなく、ネルヴァルのように狂気の彼岸に赴くのでもなく、サドのように論理を酷使するのでもない、いってみれば幻文界随一のゆるキャラだ。
だが、それはあたかも、台風の目のなかでは晴天に白雲が浮かんでいるようなものなのだ。
もし「幻想文学」という括りがジャンルとして成立するのならば、コッパードはその成立基盤のひとつになろう。それは斯界のパイオニア荒俣宏氏のひとかたならぬ入れ込みようでもわかる。事実拙豚も40年近く前、あちらのアンソロジーに一篇、こちらのアンソロジーに一篇といった具合に散発的に紹介されるコッパード作品を読んで、幻想文学という沃野の広漠さに目が眩む思いをした一人だった。

というわけで、どういうところにコッパードの魅力あるいは魔力があるのかを、この機会に一言だけ語ってみたい。もちろん本には百人百様の読み方があるから、人に押しつけるつもりは毛頭ない。

この本に収められた作品はバラッド(譚詩)の散文化ともいうべきものだ。典型的なのは「シオンへの行進」で、比較的単調な文体に乗って、ゆるゆると起伏の少ない物語が語られる。ときどきリフレインとおぼしきものもあらわれる。だから、この本は、作品の裏で響いているはずの「聞こえない音楽」に耳を傾けるように読むのが、奇蹟や恩寵が日常と共存していた吟遊詩人の時代の響きを聞き取るのが、最良の読み方だと思う。これらの物語には筋の進行を耳に聞こえない調べが制御しているようなところがあるから。

詩(うた)ならばたとえば「めうしが月を飛び越えた」と書いてあっても「ああ飛び越えたのね」で許されるだろうが、短篇小説なら「いきなり飛び越えられてもちょっとねえ……」みたいなリアクションが返ってくるかもしれない。その意味では前者のほうがより自由といえるかもしれない。

「若く美しい柳」の最後の一行など、バラッドの終わり方のひとつの典型だ。つまり、those unheard な調べが止んだあとに訪れる沈黙・静寂を先取りしたような最後の一行だ。それはポー的な短篇小説作法、作全体の効果をそこに集中させるような結末(デヌーマン)とは対極にある。物語を読み終わったあとの読者の日常生活と緩やかに溶解しながら接続していくような終わり方だ。

あるいは「ポリー・モーガン」。普通に短篇小説として読めば一体なんのことやらという話だが、リフレイン(最後にもう一度登場する「ふたり分の朝食」)が読者の裡にバラッド的情調を喚起させて、得体の知れない感動を催させる。

こんなふうに、とうに死に絶えたはずのバラッドという形式が装いを変えて、その魂だけが短篇小説という器のなかに転生するのを目の当たりにすると、文学というものの、あるいは文学史というものの不思議さに思いをいたさざるをえない。でもそれはあたりまえのことなのかもしれない。たとえば今を生きるわれわれが、たとえば200年前につくられたコールリッジとワーズワースの『叙情歌謡集』に心を動かされるということは、そこに現代への転生の契機があるということだから。