不穏の書

『虚無』へ捧ぐる供物へと
美酒すこし 海に流しぬ
いと少しを


聞くところによると、こんな詩を自作の冒頭に掲げた作家がかつていたという。しからば美酒に代えて、山椒の皮に紅葉の灰を混ぜたもの、つまり毒もみの毒を「いと少し」海に捧げたらどうなるだろう。海は酔うだろうか。「潮風の苦い空の下に/この上もなく深々とした形象が躍り上がる」だろうか。
それはまだわからない。なにしろ毒はたった今、海辺で揉まれたばかりであるから。

ここに収められた全三十九作のうち、すでに読んでいて内容も覚えているのが六作、読んだ記憶はあるが内容は忘れたものが五作、残り二十八作が初読で、そのうち十作はその作者の始めて読む作品で、さらにそのうち五作の作者はこの本を読むまで(失礼ながら)名さえ知らなかった。だから本書はすくなくとも拙豚にとってはすこぶるお徳用な一冊であって、おおいに堪能した。

これらの作品はすべからく*1、世間が暗黙のうちに了解しあっているものを絶ちきったところで成立しているようだ。いわばアンカーを持たないブイのようなものだから、出版物の洪水のなかでもっとも流されやすいものだろう。どの作品もおのれの美意識のほかはほとんど拠って立つところがなく、自分で自分の首を絞めているような――愛読者から愛読者へ手渡されるという、か細い一本のラインを通じてかろうじて生きながらえているような印象を受ける。

冒頭の宣言にアンドレ・ブルトンの『黒いユーモア選集』が言及されている。この『黒いユーモア選集』の場合もそうだったが、ひとつひとつは孤立の極限のような作品を、あえて一堂に会させるひとつの文学的営為――としか言いようのないものが、このアンソロジーを際立たせていると思う。

*1:誤用