姑の視点は天使

  紀伊国屋書店の桜庭ほんぽっ! 「姑にしたくない女」の第二弾はヴァージニア・ウルフ。おお、なかなかに鋭い選択!

 小説作法上の用語に「視点」というものがある。中島梓の『小説道場』でも口を酸っぱくして語られていたが、ことにミステリではこの問題はなかなかうるさい。場合によってはフェアとアンフェアの明暗を分けることにもなるからだ。

 こういう場合の「視点」は、「誰の目によって情景が描写されているか」ということで、たとえば一人称の小説では「私」以外の視点はとりようがない(例外もある)。一人称の小説では原則として「彼は……と思った」と書いてはいけない(例外もある)。

 といっても視点の主は別に人間でなくてもいい。『我輩は猫である』などという先駆的な傑作もあるし、佐野洋はある小説で「壁の視点」というのを採用した。

 それから多重視点の小説というものもある。筒井康隆の実験的な小説ではパラグラフごとに視点が異なることもある。しかし少なくとも一センテンスの中では、視点は固定されている。

 あと「神の視点」というものもある。神さまともなれば人間の心の中を出たり入ったりは自由自在なので、神の視点を取れば、たとえば「Aは……と思ったが、Bは……と思っていた」と書くこともできる。

 しかし、しかしですよ、ヴァージニア・ウルフのある種の小説ではなんと以上のどれでもない、「天使の視点」が取られている。「神の視点」というのはいかにも大時代的であって、今ではあまり使われないが、ヴァージニア・ウルフは「天使の視点」を発明することにより、一気に二十世紀小説にふさわしい視点を獲得したのだった。この「天使の視点」はエーリッヒ・アウエルバッハの名著『ミメーシス』で詳細に分析されている。

 鵜の目鷹の目姑の目、姑に天使の視点はまことにふさわしいではないか。