われわれに残されたよい習し

ラッフルズ・ホーの奇蹟 (ドイル傑作集5) (創元推理文庫)

ラッフルズ・ホーの奇蹟 (ドイル傑作集5) (創元推理文庫)


聞くところによると東京創元社のドイル傑作集はいよいよ今月中に大団円を迎えるという。まことにめでたい。そういうときにシンクロしてボ氏の「シャーロック・ホームズ」を訳しているのも何かの因縁かもしれない。これはボ氏の詩のなかではけっこう有名なものかもしれなくて、原詩がウェブのあちこちに転がっている。こことかこことかこことか。まだ推敲中だけれどもお慰みまでに開陳。

シャーロック・ホームズ
 
母から出でず、祖先を知らず
キハーノや アダムのように 
彼は偶然から作られた 時も距離も隔てずに
移り変わる読み手が彼を操(あやつ)る
 
ある者が彼を物語る 別の者が 
それを見る その瞬間に彼は生まれ
夢見る者の記憶の蝕とともに死ぬ
彼は風よりもうつろだ
 
純潔に 愛を知らず、求めもせず
男らしく 愛の技とは無縁のまま
ひとりベーカー街に暮らしていた
もうひとつの技、忘却とも無縁なまま
 
あるアイルランド人が彼を夢見た
だが気に入らず 殺そうとしたが失敗した
ルーペを手に 孤独に彼は従う 
途切れた事件で中断された運命に
 
交際を厭う彼を見捨てぬ 
献身的な男は 福音史家となって
奇蹟の業を記録に留(とど)めた
今も彼は生きる 第三者のうちで安らかに
 
彼はもはや浴室に行かない ハムレット
彼の隠居を訪れはしない
デンマークに斃れ、知る物はただ剣と海と
弓と井筒とでなる領地しかないから
 
ユピテルハ世界ニ満チル それならば 
この詩の題が与えた権利を以て言おう
その影は姿を変えつつ 地表を区切る
諸所の領土を巡り歩くと)
 
炉に燃える小枝を熾(おこ)し
荒地の沼で地獄の犬を殺し
長身の紳士は 自らの不滅を知らぬまま
たわいない謎を解き警句を繰り返す
 
彼はガス灯と霧のロンドンから来た
さして彼の興味を引かない帝国の
首都を自負する 静かな秘密の町 
衰退を認めたがらぬ町ロンドンから
 
驚かないようにしよう 苦しみのあげくに
宿命もしくは (同じものだが)偶然が
日々死ぬこだまや影になるという
不思議な運命をもたらしても
 
死ぬ者よ 最後の日まで 共通の目的――忘却が
われわれをすっかり忘れるその日まで
そこにたどり着くまで、泥で遊んでいよう
在る、しばらくは「在る」、それから「在った」
 
折ふし夕べにシャーロック・ホームズを思う
これはわれわれに残されたよい習しだ
死と午睡も別の習し 庭で回復するのも
月を眺めるのもまたわれわれの運だ


神西清で言えば「才(ざえ)満つ 君が頭(こうべ)をかき抱き」みたいな破調が終わりから三連目にある(この訳じゃ全部が破調だ!みたいな突っ込みは無用に願います)。この詩の初出は1984年6月10日付けの"La Nación"。つまり死のほぼ二年前の作品だ。そして生前最後の詩集『共謀者たち』に収められた。いささか図式的に興ざめに言えば、ホームズの不滅と自らの死(あるいは不死)を対比させたこの詩は、もしボ氏のミステリ論集を編むならば、その締めくくりとしてこれ以外ではありえないものだ。