西学事始

 解(げ)せ申した。解(げ)せ申した。方々、かようでござる。木の枝を断ち申したるあと、癒え申せば堆(たか)くなるでござろう。塵土聚(あつま)れば、これも堆(たか)くなるでござろう。されば、鼻は面中にありて、堆起するものでござれば、フルヘッヘンドは、堆(たか)しということでござろうぞ(菊池寛 蘭学事始)

 
 というような蘭学事始状態でボ氏の訳を進めている。もちろん良沢や玄白の時代と違い、現代には辞書というありがたいものがあるわけだけれども、ミステリというような特殊なジャンルを扱った文章だと、辞書に載っている訳語だけではどうにもならないことがある。

 たとえばproblemaという名詞。これは英語のproblemにあたる語で、辞書を引けば「問題」とか「難題」とか訳語が出ている。しかし、ミステリ的な文脈で使われたときは、「謎」という言葉をあてるのが一番しっくりくる。たとえば「緑のカプセルの難題」なんて訳すとぜんぜんしまらないでしょう? ここはやはり「謎」でなくてはいけない。

 これはどういうことかというと、おそらくこういうことだ。日本語の「謎」という言葉は、ミステリで使われるときには、一般的な意味とは少しだけずれた、特殊なニュアンスを帯びる。たぶん同じように、problemaも、ミステリで使われるときには、一般的な「問題」とか「難題」とかいう意味とずれてくるのだろう。そしてお互いにずれ合った結果、「謎」とproblemaが似合いの語として出会うのではなかろうか。

 あと悩むのは"artificio"(=英語のartifice)。これもボ氏のミステリ論によく出てくる単語だ。辞書を引くと「1.装置、仕掛け 2.巧妙なやり方、技巧 3・計略、策略」などと書いてある。では次のような文章はどう解すべきか。
 

Esto se explica porque en el género policial hay mucho de artificio: interesa saber cómo entró el asesino entre un grupo de personas artificialmente limitado, interesan los medios mecánicos del crimen y estas variaciones pueden ser infinitas. Una vez agotadas todas las posibilidades, la novela policial tiene que volver al seno común de la novela.
(なぜかと言うと推理小説には多くのartificioがあります。人為的に制限されたグループの中にどのように犯人が入っていったかを知るのはわくわくしますし、犯行の機械的手段についても同じです。こうしたバリエーションは無数にありましょう。しかしいったんすべての可能性が尽きてしまうと、推理小説はあらゆる小説に共通する母胎に戻っていく他ありません)

 100%の確信はないけれど、こういう文脈で出てくる"artificio"は思い切って「トリック」と訳するのが一番いいような気がする。「本格」とか「トリック」とかは日本独特の概念だとよく言われるが、少なくとも「トリック」についてはそうでもないのではないか。