プレ『9マイルは遠すぎる』

どくとるマンボウ昆虫記 (新潮文庫)

どくとるマンボウ昆虫記 (新潮文庫)


 昆虫少年であったためもあって、最初に読んだ北杜夫は『どくとるマンボウ昆虫記』だった。楽しくてたまらぬように次から次から知識を披露する博覧強記に感銘を受けたものだ。今にして思えば、あれがいわゆる「博物学的精神」とのファーストコンタクトであったのかもしれない。

それからミステリをぼちぼち読みはじめた超初心者の度肝を抜く一節もあった。これも今にして思えば、いわゆる「9マイルは遠すぎる」テーマとのファーストコンタクトだ。
あるギリシアかどこかの詩人が何かの機会に詩を口ずさむ、それを聞いていて感銘した人が、その詩をトルコ語に訳して友人に書き送る。その友人も感銘して今度はロシア語に訳して別の友人に送る……ということを何度か繰り返し、ついに日本語になって北氏のところに届いた。それは次のようなものであった。


花かげから
ビュッと飛んだ


これだけの短い文章から北氏は蛾の種類を当ててしまう。その推理が実に実に「9マイルは遠すぎる」であって、次のようなプロセスをたどる。

  1. 蝶と蛾を見間違えることはあるまいからこれは本当に蛾であろう
  2. 飛んだのを目撃しているので夜行性の蛾ではない
  3. 「花かげから」とあるから花に集まる蛾であろう
  4. 「ビュッ」っと形容されているからには相当のスピードで飛ぶ蛾であろう

ゆえにこの蛾は、○○蛾に違いない、と北氏は推理する。オリジナルの詩を取り寄せてみたらその推理は見事に的中していた。(以上記憶で書いているので細部は違っているかもしれません)
これを読んだ当時は「9マイル〜」はまだ読んでなかったので、「この人はホームズみたいな人だ!」と思って非常に尊敬したのを今でもよく覚えている。

まだダゴベルトを読んでいる。最近首相官邸でパーティーを催すと、きまって招待客の貴重品が紛失する。招待されるのは一流人士ばかりで、スリやかっぱらいをやりそうな人はいない。召使も信用のおけるものばかりである。だが、ついに首相夫人の甥まで被害にあった。金鎖が切断され懐中時計がやられたのだ。
その切断跡を拡大鏡で調べていたダゴベルトは、やがて得心したようにうなずき、「あなたのバーティーはとてもスリやかっぱらいが横行しそうではない。だからこそ、あなたのパーティーは、最もやすやすとスリが活躍できる場なのです」と逆説的言辞を吐き、スリから盗難品を奪い返すことに成功する。ダゴベルトが最もチェスタトンに接近した一篇、かもしれない。