夢と怪談

夢魔は蠢く 文豪怪談傑作選明治篇 (ちくま文庫)

夢魔は蠢く 文豪怪談傑作選明治篇 (ちくま文庫)


すっかり夏の風物詩として定着した感のある文豪怪談。気の狂いそうな暑さのさなかに、つつじヶ丘の書源で『幸田露伴集』を買って、ウホウホと電車の中で読んだのが、つい昨日のことのように思いだされる。年をとると時間が滝のように流れてかなわんのう、のう婆さんや?

このシリーズを通読してしみじみ感じるのは、文豪たちの作品の驚くべき等質性である。川端康成室生犀星も、太宰治三島由紀夫も、このアンソロジーに入れられた途端に、妙に互いに似通ってくるのだ。それは「怪談」という形式がそれ相応の語り口を要請するからだろうか。それとも民族の魂に深く刻まれたなにものかが個々の作家の個性を越えて溢れ出てくるからだろうか。それとも猛暑で脳が溶けて味噌も糞も一緒に感じるのか。それはよくわからないが、ともかくも、独自の視点から文豪たちの作品を切り取って、日本文学の暗渠とでもいうべきものを鮮やかに浮かびあがらせたところにこのシリーズの大いなる特色があると思う。

ところで怪談について語られたもののなかでは、もちろん拙豚の管見に入ったかぎりではあるが、一番肯綮にあたっていると感じるのは石堂藍さんの言葉だ。これは石堂さんのウェブサイトに、「涙と恐怖」と題されて掲載されている。

そして怪談はすべからく実話である、と思ってのめりこみながら読む。これで怖くないのなら、それは読者の想像力が貧困なのである。あるいはその怪談が、すさまじく下手なのである。それは文芸としても読むに価しないものだろう。


野暮の謗りをおそれずにこの含蓄のある文章をあえて鑑賞すると、まずここで言われているのは、怪談は実話として味わうべきということだ。言い換えればそれは己が小説であることを意識する小説、今様のことばで言えばメタフィクションからもっとも遠いところにあるものだということだ。「怪談にはだまされてみろ」と、昔の偉い作家も言っていたらしいし(違ったかな?)。

そして同時に「実話」ということは、いかにも作り話めいた起承転結、因果律、予定調和などに縛られないということでもある。事実は小説より奇なり、「どうせ○○が○○なんだろ」などという予断を持つことなく、次には何が起こるのだろうと、一歩一歩自分の足元を確かめるようにドキドキハラハラしながら読む。これぞ怪談読みの極意であろう。
この文章には他にも想像力と上手下手の関係とか、「文芸としても」という言い方にみられる、いわゆる「文芸」との距離の置き方とか、語りたいところがある。でもそこまで踏み込むと話が散らかりすぎるのでまた別の機会にでも。

今回の『文豪怪談傑作選・明治編』の趣向は「夢語り」であるという。そういえば上にあげた特質はそのまま夢の特質でもある。夢を見ている人は、どんな荒唐無稽なことが起こっても、それを事実=実話として受けとる。ノヴァーリスもいうように、メタな立場にたつとき、すなわち夢を見ているという夢を見るとき、すでにしてわれわれは目覚めに近い。
そして因果律に縛られぬこと、これも夢の特質でなくてなんであろう。夢のなかではどんなことでも起こる。とっくに死んだ人と親しく話すなどは朝飯前の世界である。
さて、夢と怪談のブレンドはいかなる世界を現出させるであろうか。