C感覚とY感覚

本書の「訳者あとがき」には、「……コリーの主著に「パラドックスとパラダイス」という絶品書評を呈して「戦友」を鼓舞したのがイエイツ女史である」とある。だが、この「鼓舞」にはたぶんに批判が混じっている。「パラドックスとパラダイス」はイエイツ論文集の第三巻に収録されているので少し引用すると、

この(パラドックスという)主題については、一冊の本を書く余地があるが、その場合基礎となるべきは、パラドックスがその多様な相において何で構成されているのか、そしていかにルネサンスがこの把握しがたい様式を用いたかを、注意深く定義することである。この条件は『パラドクシア・エピデミカ』では満たされていない。修辞的パラドックスは、不可能な議論によって論理パラドックスに同化(assimilate)され、それが本全体にまたがる混乱を導いている。ルネッサンス・パラドックスを定義しその境界を定める(delimit)いかなる試みもなされていないし、他の表現様式や思想から「純粋にパラドックスなるもの」を区分することもされていない。しかしこの混乱は意図的なものである。なぜならコリーは、彼女の解釈するところのパラドックスは、この時代の何もかもを覆うものと信じているようだから。もし彼女が、より精確に定義をおこない、より穏やかに主張をしたならば、彼女の本はルネサンス展望における重要な構成要素としてのパラドキシーへの模範ともなったであろうに、彼女は荒っぽいし、やりすぎる(she wildly overdoes it)。

この最後の"she wildly overdoes it"のくだりは、本書第16章「自らの刑執行人」の一節「してみるとパラドックスは突き過ぎ(overreaching)で自殺するのだ(p.518)」と見事に呼応していて、コリーはこの評を読んでパラドクシカルに喜んだのではなかろうかと想像する。

しかしこの批判は、「伝染性」という肝心な一点を見逃しているのではないか。伝染性であるからには、すでに大気中に瀰漫する放射性物質の如く、「境界を定める」(delimit)ことはできない。すくなくとも共時的にはそれはできず、人はその伝染=流行の終焉をひたすら待つしかない。つまり通時的にしかそれを境界付けることしかできないのではなかろうか。パラドックスがすでにしてルネサンスの言語であったのなら、それを境界付ける=言語の外部を定義するということにどれだけの意義があるかは疑問だ。

当のコリーはエピローグでこんな風にパラドックスを説明している。

パラドックスは「思考」と言語の間の、「思考」と「感情」の間の、「論理」と「修辞」の間の、「論理」「修辞」と「詩学」の間の、そしてこれら全てと「経験」との間の区別を拒否するために存在する。[……]範疇同士融合させるしかない。パラドックスははっきりと創造的たりながら批判的たり得、自らの主体たりながら同時に自らの客体たり得、終わりもなく自分自身に出たり入ったりするのである。(『パラドクシア・エピデミカ』p.552)

このように「伝染性」パラドックスに境界はなく、諸星大二郎の「生物都市」のごとくひたすらな融合をめざすものとしてコリーは考えているようだ。だからパラドックスのdelimitというのは、それ自体がパラドックスといえよう。極論すれば「夢のようだ…新しい世界が来る…ユートピアが…」というノリなので、受け付けない人にはハナから受け付けられないかもしれない。

「VはAの間借人だ」と豪語する足穂の『A感覚とV感覚』と同じく、本書におけるパラドックスは一元論的なものであるが、しかし同時にそれは自らだけで充足はしえないものでもある。

パラドックスは実際のところ、あらゆる修辞と文学の形式中、一番自足と縁遠いのである。パラドックスはその機能するか否か、完全にオーディエンス、見る側、読む側まかせである。その働きの片棒を見る者が喜んで担ってくれ、そうやって役を担うことでパラドックスの働きを先に進めることを要求するのがパラドックスである。(『パラドクシア・エピデミカ』pp.552-553)

つまりイエイツのような、壷をついた突っ込みをしてくれる人が必要不可欠だということだ。この意味で「戦友」というのは当たっていよう、味方か敵かはにわかには判別しがたいにしても。

このあとイエイツは本書エピローグに出てくる『天文対話』をめぐってすごい突っ込みを行っているが、それはまた後日にでも。