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- 作者: エンリーケ・ビラ=マタス,木村榮一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2011/02/15
- メディア: 単行本
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ポータブル文学とは何か。真偽さだかならぬ噂によれば、前世紀にはそれは、「デラシネ」とか「モダニスム」とか「シュルレアリスム」とか「亡命者の文学」とか「汎ヨーロッパ的文学」とかいろいろ呼ばれていたという。そうしたネーミングはしかし、もっとも肝心のポイントを見逃していたがゆえに、的外れとならざるをえなかった。それは何か。他でもない、たとえ放浪のうちにありながらも、宇宙を小さなトランクに入れてポータブルなものにしていたところだ。デュシャンの「グリーン・ボックス」をかれらはみなそれぞれに持っていたのだ。
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日本にポータブル文学者を求めるならば、さしずめ、国外を一歩も出ずして亡命者のような生活を送ったわれらが稲垣足穂があげられよう。ほとんどつねに身に一物ももたず、追いたてをくらって引越しをするときには、作品メモをしたためた紙きれの束を着流しの懐に入れるだけというポータブルぶりであった。
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宇宙をポータブルにするためには、必然的に、何もかもミニチュア化されねばならない。あたかもトミカやメルクリンの模型のように。あるいはタルホ好みのたとえでいえば、レンブーケ氏が紙でこしらえたプラットホームのように。タルホは『悪霊』のなかで、これがいちばん珍重すべきエピソードだと断言してはばからなかった。
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タルホのハイデガー理解は、カトリック理解は、あるいは仏教の理解は間違っているという人がいる。だが、ポータブル文学的観点からいえば、これほど愚な意見もない。つねに持ち歩くためには、ハイデガーも仏教もミニチュア化されねばならぬ。とすれば、等身大のそれらとはおのずから似て非なものになるであろうではないか。
それをしも間違っているという者は、書に埋もれ自宅に引きこもっているしかない。林達夫の伝えるところによれば、藤村はパリに遊んだときでさえ、心理的にはsédentaire(引きこもり)であったという。ポータブル文学とはその対極にあるもので、典型としてはプラハの自宅と職場を往復するだけでありながらオドラデクの生を終えたカフカがいる。
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本書にはマルセル・デュシャン、ジャック・リゴー、ブレーズ・サンドラール、アレスター・クロウリー、グスタフ・マイリンク、その他もろもろの、綺羅星のごとき人物が登場する。だがことごとく鉛の兵隊のようにミニチュア化されている。これをして、「ヴィヨンはこんな人ではなかったと思いますが」みたいなことを言うのは野暮というものだ。なぜならこれは「ポータブル文学小史」だから。ポータブル文学実践の書であるのだから。
むしろ、ミニチュアならではの余計な垢をこそげおとした鉛の兵隊たちのメカニックさを愛で、そうしてはじめて得られるいっときの精神の開放を味わうべきであろう。
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