狩久登場

 
 奇作怪作でむせかえるような清張以前ミステリ群のなかでも、狩久は際立って異様な作風を持つ一人である。人は狩久のようなミステリを読みたいと思えば、狩久を読むしかない。

 いま、ついうっかり「ミステリ」という言葉を使ってしまったが、こういう作風が本当にミステリと呼べるのかは実は疑わしい。確かに密室殺人は起こるし、謎も論理的に解かれる。しかしその謎解きはあまりに即物的で、ミステリというよりはむしろ推理パズルだ。ちょうどシンポ教授初期の何冊かの(三冊?)推理パズル本、「ピーター卿糊出す」とかああいった感じの乗りである。

 それでは狩久作品はパズルを文章にしただけの無味乾燥な小説かというとこれが大違いなのであって、なんと作者はパズルで読者を瞞着するかたわら「愛と死をみつめて」いる。あるときは真剣に。あるときは皮肉なまなざしで。

 その愛も初心な青年の純情と快楽主義者の放蕩が溶け合ったまことに妙ちきりんなもので、いやそれだけならまだいいのだけれど、推理パズル部分とその「愛と死」の部分が互いに遊離することなく渾然一体と物語られるのだからもう読者は煙に巻かれるか魅了されるかしかどうしようもない。

 多くの作品は物語は終わったところから始まっている。つまり愛の終わりから。思いなしかそこにはイデアの影がさしているようだ。その意味で彼のたぶん最高傑作は死の直前に書かれた長編『不必要な犯罪』ではないかと思う。急逝がかえすがえすも惜しまれる。

 ところで問題の遺作『裸舞&裸婦奇譚』であるが、先に出た『幻影城の時代』中の記事によればあれは島崎博の与太だったということでケリがついたはずだった。だが、本書解説では、あたかも実在する作品の如く扱われている。かくて解決したと思った謎がまた振り出しに戻ってしまった。果たして真実はいずこに?

 考えてみれば、「剽窃されるのが嫌だから書誌をつくるときには故意に作品を抜かしておく」と嘯く島崎氏がいつも本当のことを言うとは限らないのだが……