『Oの物語』メモ4:幸福と快楽と

 
 前回のメモで不用意に「マゾヒズム」という言葉を使ってしまったが、実はこの言葉は『Oの物語』を語るうえで絶対に使ってはいけない言葉だった。すでにしてジャン・ポーランが序文で、マゾヒズムという切り口からこの本を読むことについて嘲弄的な言辞を吐いているし。

 マゾヒズムの物語には「制度」がつきものだ。主人や奴隷といった身分制度はもとより、学校や修道院のような社会制度、あるいは『家畜人ヤプー』を典型とする国家制度などなど。この本にもロワシーの館や館内で課せられる掟という形で「制度」はあらわれる。だが、第二部でそれらはことごとく無化されてしまうのである。そしてさらに言えば、これはマゾヒズムという快楽の一形態について語る書ではない。これは快楽の書ではない。むしろ幸福の書であろう。

 むかしある人が『快楽主義の哲学』という本のなかで、「幸福ではない、断じて幸福ではない。快楽だ!」とさかんにアジっていたが、この『Oの物語』はそれとは逆に、「断じて快楽ではない。幸福だ!」と訴えかけているように思える。その証拠には、この本にはエクスタシーの描写がひとつもない。こんなポルノグラフィーが果たしてあろうか。いや断じて!

 しかし同時に、快楽を目指すより幸福を目指すほうが、実はずっと、身の毛がよだつほど怖ろしいということをこの本は示しているようにも思える。

 ここに一組のカップルがあって、一人は幸福を、もう一人は快楽をめざしているとする。すると、たぶん快楽を目指したほうがつきあいきれなくなって去っていくだろう。なかんずく、その幸福が世の常の幸福でないばあいはなおさら。さればこそ、リベルタンたちにとってロワシーの館は快楽の館=娼館であらねばならないのである。