『Oの物語』メモ3:Unio Mystica

完訳Oの物語

完訳Oの物語


『Oの物語』第二部の冒頭に序文のような形で置かれた「恋する娘」という文章の終わり近くで、作者は知り合いの女性から、まるで「O」の一場面のような話をその女性の実体験として聞く。それを受けて作者は「私は彼女の話を真似したのではないし、娘が私の語った話からヒントを得たというのでもない」と書いたあと、次のような文章で「恋する娘」を締めくくる。

だが、ある部分がいったん幻想に合致して繰り返され、妄想が満足させられることになると(快楽と暴力の絶え間ない繰り返しは、不条理であり実現不可能なものであるが、同時に必要不可欠なものである)、実際の体験であれ夢であれ、すべてがぴったり一致して、同一の狂気の世界のなかで、すべてが共有されていることがわかるだろう。その世界を正面から見ることができれば、恐怖も驚異も、夢(ソンジュ)も嘘(マンソンジュ)も、すべてがそこでは悪魔祓いと解放なのである。(『Oの物語』 p.247)


この美しくも難解なマニフェストを、大仰さと元の文章からの逸脱をおそれずに、ちょうどアントナン・アルトーがポーの詩に対して行ったような妄想力パラフレーズすると、私の耳には作者はこう訴えかけているように聞こえる(原文は手元にないのであくまで妄想ではあるけれど)

「しかしそのファンタスティックな性格、その微に入り細をうがつヴィジョンをよくよく考えてみると、強迫観念から逃れんとするそういった行為 (ばかげていて、けして充足されぬものと知りつつもやむにやまれず繰り返してしまうあの快楽あるいは暴力行為) というのは、実体験であるか夢想であるかにかかわりなく、互いに通ずるものを持つからには、ある一つの狂気の宇宙の一片(ひとかけら)だと考えざるを得ない。そしてその宇宙全体をあえて直視したあとでは、残虐も驚異も、夢も虚構も、(快楽であることも妄執であることもやめて)すべては魔よけと救済に変ってしまう。」

つまりここで語られているのはひとつの宗教体験にも似たものだ。マゾヒズムは一般にパートナーとの幻想の共有によって成り立つものだが、それが「快楽であることも妄執であることもやめて魔よけと救済に変って」しまったあとでは、パートナーはもはや無用の長物たらざるをえないし、パートナーと共有した幻想さえもまた、同じく無用の長物となるだろう。『Oの物語』第一部から第二部への一見不可解な転換を解く鍵はここにあるように思う。