見えるが見えない骸骨


一月ほどまえに出たレヴォカシオン最新号に「賓客」(カチュール・マンデス)という面白い短篇が載っている。訳者は頼まれた翻訳をすっぽかしてパリに逃げたという噂の(あくまで噂にすぎないけれど)T氏。齋藤磯雄のリラダンを思わせる高雅な文章は、ひととき暑気を忘れるくらいに人を忘我の境にいざなう。

これは骸骨の見える大臣の話である。演説中にこの大臣は誰もいない客席に向って「おい、そこをどいてもらおう」と話しかける。それを友人の医者が見とがめ、ある日大臣宅を訪問すると、医者は先客の骸骨に紹介される。もちろん医者には何も見えない。てっきり大臣の頭がおかしくなったと思った医者が、大臣の召使に相談しようとすると、なんと召使にも骸骨が見えるという。

大臣には骸骨が見えている。それはまごうかたなき事実であろう。大臣の召使にも骸骨が見えている。それもまた、まごうかたなき事実であろう。しかし、これがこの作のキモなのだが、大臣にも召使にも、骸骨は見えていながら見えていないのである。

もしあなたの目の前にいきなり骸骨が現れて踊りだしたとしたら、日本ではいざ知らず、西洋ならばまあたいていの場合は、Memento Mori(死を忘れるな)の勧告だと相場が決まっている。ところが大臣はその無言の勧告を知ってか知らずか意に介さず、骸骨と友だちづきあいをはじめる始末。
それはやっぱりまずいですよね常識で考えても。はたして結末で大臣は悲惨にして滑稽な目にあってしまう。「賓客」という絶妙なタイトルがここで俄然利いてくる。

骸骨に限らず世の中にこういうことはありがちだ。たとえばここに高踏的な詩作品があるとする。他の人には分からないその価値があなたには分かるとする(つまり他の人には見えない骸骨が見えるとする)。しかしあなたに骸骨の正体は見えているのか? 安易に友人づきあいをしているだけではないのか? 他でもないレヴォカシオンにこの作を送稿し、陰でひとりニヤニヤしているT氏の顔が目に浮かぶようではないか。