『Oの物語』メモ2:プラトニスム

 
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは自他ともに認めるウルトラ女嫌いで、最後の長篇『大失敗』(1987)はあまりの女性蔑視描写のため、英語版では文章に一部削除がされているという。自然ポルノグラフィも彼には嫌悪の対象でしかなく、開いただけで吐き気がすると言ってはばからない。

しかし、そんなレムが例外的に『ロリータ』とならんで賞賛を惜しまないのがこの『Oの物語』である。彼の「O」論は三年位前の日記でかいつまんで紹介したけれども、そこでは「大いなる愛の物語」「われわれが「気高さ」と呼ぶ感情は、われわれがこれ以上ない屈辱と見なすものから生まれるのではないかという可能性を説得力をもって語りかける」といった、毒舌家の彼に似つかわしからぬ賛辞が連ねられている。

鞭打ちなぞにはひとかけらの関心もないであろうガチガチの理系男にここまで言わせるものは何か。むろんザッヘル-マゾッホ〜シュルツ〜ゴンブロヴィッチと連なる東欧的なマゾヒズム心情は無視できないけれども、ここでは別のことを語りたい。なにかというと、いみじくも「反写実主義」と彼がいう、語られていることと読者が受ける印象の乖離だ。

あたかも作者レアージュのまなざしは永遠の相のもとにあるなにものかに向けられ、読者も知らず知らずのうちに、鞭打ち描写の彼岸にある同じものを見るよう促されるかのようだ。それはもしかしたら正視に堪えぬような恐ろしいものかもしれないけれども。

ここでふたたび"Lecture pour tous"のなかのプルースト論、『失われた時を求めて』のヴァリアントの特徴を論じたところから引用すると:
「(テクストの)変更についていえば、その本質には奇妙なところがあって、つまり厳密にはそれは変更ではなく、むしろ偏愛する主題の幾多の相のうちの一つで、その執拗な反復こそ、その重要性の証しである。そのおのおののフォルムは、つかのま姿を見せる不変の真実を捕まえるため次々仕掛けられる罠であり、罠の網目の精粗にはときにより差があるものの、手繰り寄せられるのはいつも同じ幽霊、同じ怪物である。それは時にはあるゆる種の存在を証し立てる一つの存在であったり、時には種々の法則の現実性を証し立てる一つの法則であったりする。(Pour ce qui est des changements, leur nature a ceci de curiuex qu'ils ne sont jamais a proprement parler des changement, mais plutot un aspect, entre autres, d'un theme de predilection, dont le ressassement obstine marque assez l'importance. Chaque forme est un nouveau piege pour saisir, dans sa fugace apparition, une verite identique, pour ramener, dans un filet aux plus au moins grandes mailles, le meme fantome ou le meme monstre, tantot un etre qui prouve l'existence de l'espece entiere, tantot une loi qui prouve la realite des lois.)」

この文章はなんだか『Oの物語』のことを語っているような気がしないだろうか。ポルノグラフィであるからには、同一行為の「執拗な反復」は避けられない。しかしそれは「つかのま姿を見せる不変の真実を捕まえるため次々仕掛けられる罠」であるというのだ。そして手繰り寄せられるのはいつも、「あるゆる種の存在を証し立てる一つの存在であったり、時には種々の法則の現実性を証し立てる一つの法則であったりする」(つまり稲垣足穂におけるA感覚の如きものであろう)ところの、「同じ怪物」であるという。おお、同じ怪物!