『抒情的恐怖群』頌

抒情的恐怖群

抒情的恐怖群


誰だか思い出せないのだが、ある高名な作家がこう書いていた。クモやゲジゲジなどの他愛ないものを人が怖がるのは、本当に怖いものを怖がらないようにするためなのだと。つまり、人間が感受できる恐怖の総量には限りがあって、水槽に水を充満させればそれ以上注いでも溢れるしかないように、クモやゲジゲジで脳内の恐怖感受槽とでもいうべきタンクを満タンにしておけば、もはや余計な恐怖に悩まされることはない。かくて他愛ないものへの恐怖は、健やかな日常生活を送るのに欠かせない心理的安全弁だというのである。

水槽を満たすものとしての恐怖。あるいは恐怖による恐怖の封じ込め。このふたつは上の説によれば結局同じことなのであるが、これこそがこの『抒情的恐怖群』に見え隠れするテーマではなかろうか。

そこでは水槽はいろいろな形をとっていて、たとえば「町の底」では地に穿たれた穴、「帰省録」では石垣、「緋の間」では屋敷の奥の一室などなど。しかして作者が悪辣なところは、せっかく充満していた恐怖を、しばしばわざと途中で消滅させてしまうことだ。いきなり空になる水槽。
それは「帰省録」の何も書いていない紙であったり、「緋の間」の対話者の消失であったりするのだが、おかげで恐怖によって封じ込められていた恐怖が、その真空状態に乗じて顔を出すことになる。かくて不思議な余韻を醸し出したまま、物語は幕を閉じるのだ。