『Oの物語』メモ1:ヴァリアントマニア

完訳Oの物語

完訳Oの物語


『Oの物語』第一部は二つの書き出しがあって読者をとまどわせる。ちょうどジャズミュージシャンたちがセッションが始めたとたん、誰かがとちって演奏が中断され、そのままテイク2に移ったかのように、この物語は二ページちょっと進行したあと、唐突に「この話にはもう一つの書き出しがあって」と作者が顔を出し、その「もう一つの書き出し」が語られる。
普通ならばどちらか一方は反古にされ、せいぜい奇特な研究家にヴァリアントとして珍重されるくらいだろう。しかし作者は片方を捨てることはしなかった。
ヴァリアントがヴァリアントのまま本文に残されるということ。これはもちろん、こけおどかしの技巧などではない。むしろレアージュを、あるいはこの物語を理解するうえで非常に重要なポイントに思える。一つの出来事に、あるいは一つの物語に、いやおうなくヴァリアント=枝分かれを見てしまう性向。

この物語は結末もまた三つのヴァリアントを持つ。すなわち第一部の終わりに覚書として書かれた二つの結末。それから第二部「ふたたびロワシーへ」。(マンディアルグは覚書の最初のものと「ふたたびロワシーへ」を同一視したのか、ヴァリアントは二つとしている。そうすれば、二つの書き出しとシンメトリックになるというわけだ)

第二部を語り始めるにあたって作者は宣言する。「以下のページは『Oの物語』の続篇である。そこでは「Oの物語」のまったく違う展開(下降の物語といってもいい)が意図的に語られている。ふたつが一緒になることは今後もありえない」。それはもちろんそのとおり、枝分かれした世界がふたたび一つになることはありえない。

こうしたオーリー(レアージュ)のヴァリアントマニアぶりをあらわにしめす文章が評論集 "Lecture pour tous" におさめられている。プレイアッド版『失われた時を求めて』の書評として書かれた "Une Autre Ressemblance" である。プレイアド版に注として付されたおびただしいヴァリアントを前にオーリーはこう語る。

ところでプルーストが時間を取り戻そうと試みたというのは正しくない。彼が時間を取り戻そうとするのは、むしろそれを無化するためだ。時間とは一つの不幸であるのに対し、この作品ほど自らが幸福の探求であることを情熱的に告白している本はない。その戦いの絶え間ない勝ち負け、その休みない狩猟を他の徴候とともに如実に表わすのが、このおびただしいヴァリアントだ。 (Ce n'est pas vrai d'ailleurs qu'il cherche a retrouver le Temps. Ou plutot il cherche a le retrouver pour l'aneanter. Le Temps est le malheur, et aucune oeuvre n'a plus passionnement avoue qu'elle etait une recherche du bonheur. D'ou ce combat constamment perdu et gagne, cette chasse sans repit, que traduit, entre autres signes, l'abondance des variantes.)


クララックおよびフェレによって校訂された本文を、オーリーは必ずしも特別扱いをしておらず、むしろヴァリアントと校訂本文を同等なものとしている。そして上の文章をあえて敷衍すれば、プルーストにとってヴァリアントとは必ずしも決定稿を生み出すため手段ではない。なぜなら決定稿といえど一つの時間であり、オーリーの表現を借りれば、すなわち一つの不幸であるから。その一元的な時間を無化するための、その記録としてヴァリアントがヴァリアントのまま残されたというわけだ。