蛸墨を吐く少女

 
リュシアン・Nは親から相続した骨董屋をパリで営む孤独な青年。彼には不思議な性癖がある。ひそかに墓地を暴き老若男女問わず死体を家に運び込み、臥所をともにしてはセーヌ川に捨てに行くのだ。

今回邦訳が出た『ネクロフィリア』は、一時わが枕頭の書だった。何年か前、部分的に訳して出版社に持ちこんだこともある。しかし頭を冷やして考えると、翻訳を世に問うほど自分はフランス語はできない、という事実に気づかざるを得なくなり、訳稿はそのままお蔵入りになった。だいいち枕頭の書というのは眠るための本であって読むための本じゃない。

おなぐさみまでに当時作ったつたない訳から少し引用。この文章に何か感じるもののあった方はぜひ本書を購入し、リュシアンの運命をみとどけてやってください。
 

 きのうの晩、あの子は僕にいやがらせをした。あの微笑みの裏に何かあると気づくべきだった。とても冷たく心地よく、うっとりするほど狭い、死者ならではの肉体にわが身を押し込んでいるさなか、あの子はいきなり目蓋を開け蛸みたいな半透明の瞳を見せると、ぞっとする音で腹を鳴らし、得体の知れない黒い液を僕に浴びせた。ゴルゴンの仮面さながらに開いた口は止めどなく汁を吐き、部屋をいやな臭いで満たした。なにもかもすこしばかり興冷めだった。僕はもっといいマナーに慣れている、死者たちは清潔なものだ。生に別れを告げるとき、不名誉な重荷を下ろすように、すでに排便をすませている。腹にしても太鼓のような硬い空ろな音で鳴らす。死者たちの精妙でありながら強烈な匂いは蚕蛾のそれだ。地球の核から、つまり麝香臭を放つ幼虫が草木の根を縫い道をつけ、雲母箔が冷ややかに銀の光を投げ、やがて菊となるものの血が涌き出るあの王国から、粉末状の泥炭や硫黄質の粘土の狭間を抜けやってくる匂い。死者の匂いとは宇宙に回帰する匂い、至高の錬金術の匂いだ。なぜなら死者ほど清潔なものはこの世になく、そして時とともにますます浄化され、その純粋さのきわまった果てに、永遠に脚を広げたまま声なく微笑む象牙の大きな人形となるのだから。

 僕は二時間以上かけてベッドをきれいにし女の子を洗った。腐ったインクみたいなものを吐くこの子はまさしく蛸の性を持っている。今はもう毒液を吐きつくしたらしく、おとなしくシーツの上に横たわっている。

 
ちなみに澁澤龍彦は「マリ・クレール」誌のアンケート(1984)の中で、本書を古今東西のポルノグラフィ ベスト50に入れている。ここにでてくる「蛸の性をもつ死体」、人形愛と博物誌の交錯したイメージは、さぞや澁澤のお気に召したにちがいない。