矢野目訳は名訳である

 矢野目源一訳『黄金仮面の王』をひさしぶりに読み返す。今回気づいたのは「である」の多用。はなはだしいときにはこんな文章が出てくる。
 

……皆上甲板の欄干にもたれてこの新しい陸地を眺めながら、かれらの眼は怪しく震えたのである。
 あらゆる国から、あらゆる皮膚の色をした人種が集まって、あらゆる国の言葉で話をしているのであるから、こうして一緒にいてもその振舞は決して同じではないのであるが、かれらは唯同じような情熱と一団となって殺戮を恣(ほしいまま)にするということだけで結びつけられているのであった。  (眠れる都市)

 
 こんな風に「である」「である」「である」とやるとヒトラーの演説みたいになるので絶対にやってはいけないのであるが、この文章ではそれが実に効果的に使われている。あえて理屈ぽく説明すると、この「である」「である」「である」のリズムが「あらゆる」「あらゆる」「あらゆる」と絡み合って読者に催眠術をかけ、この異様な物語を受け入れるのに最適の精神状態をつくりだすのである。

 あとつまらないことだが、53ページの「縄は動かずに空に浮かんだまま、」というのは「蠅」の誤植だと思う。インドの奇術じゃないんだから。