ゆとりの弊害とか

 
 旅芸人の一座を乗せた船が西国にくだる途中で暴風にみまわれ、いずことも知れぬ岸辺に漂着した。しばらくすると一行のまわりにわらわらと無数の猿が集まってきた。なかに人間より少し大きいくらいの老猿がいて、こいつがどうやら大ボスらしい。

 猿どもは一列に並び、大ボスを拝んでは、旅芸人に向かって何かを懇願するようにお辞儀をくりかえす。一同ハテと当惑するなかに、頓知のきくものが一人いて閃くには「猿は人の心をよくさとるものゆえ、何さまこの船を芝居の船と見つけ、我々に狂言を好むにてやあらんと」

 そうであったか、それならそうと早く言ってくれればいいものを。そこで一座は囃子おかしく吹き鳴らし舞のかぎりを尽くすと、猿どもに大いに受け、老猿のボスも手を振りオウオウとうめくが如く喜んだ。一座は礼に蛸の干物を賜り、おまけに帰り道も教えてもらったそうだ。
 
 昨今、いわゆるゆとり教育の弊害が云々されている。しかし事はただ人間のみではない。こういう話とか恋人の身代わりに心中相手になった狸の話とかを読むと、動物も昔は今よりずっと知恵があったのではないかと思わざるをえない。

 この『奇談異聞辞典』は動物たちの驚くべき知恵という意味でファーブル昆虫記を連想させるけれど、ファーブルが観察した昆虫たちの叡知を、はたしていまの虫どもは保持しているのだろうか。「ホレこの通りやってみろ」といってやらせたら果たしてうまくやりとげられるのか非常に不安な気がするのはわたし一人ではあるまい。