新しい宇宙論

フェヒナー博士の死後の世界は実在します

フェヒナー博士の死後の世界は実在します


袋小路に陥り沈滞の極にあった未来派運動が、極東の一小国で、それも布団一枚なくカーテンにくるまって寝ているような男の部屋で、おそるべき形而上学的超越に変貌する。いわずと知れた稲垣足穂弥勒』冒頭の鉛の銃弾のシーンだ。
そのひきがねとなったフェヒナーの『死後の生活』が、いきなり新訳で出た。残念ながら英訳からの重訳のようだが、それでも明治末から終戦直後にかけて出た何種類かの版がいずれも稀覯本となった現在、この出版の意義は大きい。(とはいうものの英訳は直訳調の悪訳で、それがまた日本語に翻訳されたらどういうことになるのか、一抹の不安もないではない)

ともあれ、こういう本をスピリチュアルの輩だけに独占させておくのはもったいないし、実際通俗スピリチュアリズムからは大きく逸脱する本でもある。本書を手にする方には、スピリチュアルの呪縛圏を脱するためにも、やはり少し前に新訳が岩波文庫から出た『ユリイカ』と併読されんことを望む。

個別的同一性の観念は徐々に普遍意識のなかに融けこむにいたるだろう――たとえば、人間は徐々に自らを人間と感じなくなり、ついに自らの存在をエホバの存在と認識する恐ろしきまでに勝利に充てる日を迎えるにいたるだろう、と考えてみよ。その日まではともあれ、小は大のうちに、一切は神霊のうちに宿りつつ――一切は生命裡の生命――生命――生命なることを忘れるな (牧野信一・小川和夫訳)


これは『ユリイカ』のエンディングだが、この一節は『死後の世界』と、そしてもちろん足穂の『弥勒』とも響きあい、誇らかに凱歌を唱和しているとは思えないだろうか。まことに、『死後の世界』も、『ユリイカ』も、『弥勒』も、宗教から絶縁したところでなされた新しい宇宙の生成であった。

ユリイカ (岩波文庫)

ユリイカ (岩波文庫)

いやしくも思考する人間にして、その思考生活の輝かしいある時期に、己れ自身の魂よりも偉大なものがあろうなどという考えを感得しよう信じようとして空しい努力を続け、その激浪に呑まれて途方にくれた、という経験のない人はありませぬ。一つの魂が己は他の魂よりも劣っていると自覚することのまったき不可能さ、かかる考えに対する強烈な、圧倒的な不満と反抗、――これらは、何人の心にもすくっている完全性への憧憬と相俟って、原初の単一に向かおうとする精神的苦闘なのであり、かつ物質の同様の苦闘と符節を合するものなのであり――これは、少なくとも私には、いかなる魂も他に劣っていないこと――任意の一つの魂より優っているものは存在しないし、ないしは存在し得ぬこと――おのおのの魂は一部分、自らの神、自らの創造者にほかならぬこと――一口に言えば、神は、物質的ならびに精神的神は、いまや拡散された宇宙の物質ならびに精神のうちにのみ存すること――しかしてこの拡散された物質ならびに精神の再聚合は純然たる精神的個一的神の再構成にほかならぬこと――これらのことに対する証拠と思われるのでありまして、この証拠は人間が論証と命名しているたぐいのものよりもはるかに有力なものだと考えているのであります。(同上)