文豪怪談・三島集を巡って3(怪談文体の巻)

 
この話題をいつまでも引っ張るつもりはないけれどもう少し。
とはいうものの三島(以下ユッキー)作品自体にはあまり親しんでいるとは言えず、今回のユッキー集に収められた小説で既読だったのは十一篇中たった四篇しかなかった。それら未読作品を読んで驚いたのは、どれもこれもみごとな怪談文体で書かれていることだ。たとえば「朝顔」の書き出しはこんな感じだ。

私の妹は終戦の年の十一月に腸チフスで死んだ。享年十七歳である。戦後学校へたちまち疎開の荷物が還ってきて、それをリヤカーで運び入れる作業に携っているあいだ、初秋のまだ暑い日光に照らされて、咽喉が渇いた。焼跡の鉛管から出ている水を呑んだ。それが感染の経路ではないかと友達は言っている。

「雛の宿」はこんな感じ:

こいつは少々、童話めいた話でもあるし、おままごとじみた物語でもある。しかし僕は現実にその童話のなかに生きたのだし、日頃の僕が大法螺吹きだということを知らない君なら、きっと信じてくれるだろうと思う。

「花火」はこんな感じ:

昔の大将の身代り首というものがある。活動写真のスタンド・インというものがある。他人の空似というのは実際にあることだ。

どれもこれも「来る」ものがあるではないか。

ここに共通するのは一種独特なぶっきらぼうな感じだ。あるいは最愛の妹の死を他人事のように事務的に説明したり、あるいは「信じてくれるだろうと思う」と言いながら「日頃の僕が大法螺吹き」と余計な一言を入れて「信じてくれなくてもいいんだ」というニュアンスを入れてみたり、あるいは「他人の空似というのは実際にあることだ」と根拠もなく断定したりと、まるでもうこの世に執着するものは何もないよ〜俺の話なんかどう思ってもらってもいいよ〜と言わんばかりだ。

ユッキーは何かのアンケートで「鴎外から何を学んだか」と聞かれ、「感受性を侮蔑すること」と答えたそうだ(あるいは中公版文学全集鴎外集の解説だったか? 今記憶が不確か)。これらの「怪談」はまさにまさに、「感受性を侮蔑」している。ちょうど鴎外自身の「百物語」に出てくるあの人みたいに。だからこそ読者の側ではソクソクと感じ入らざるを得ないのだ。ハテこれこそが怪談の骨法なのであろうか?

そしてなお恐ろしいのは、論文「小説とは何か」までもが怪談調で書かれていることだ。未読の人のためにネタバレは避けるけれど、第一章とか第二章はまさに一級の怪談だ。おもわず背筋がゾワっとする。