文豪怪談・三島集を巡って2(現人神の巻)

  
「家畜人ヤプー」「O嬢の物語」そして「英霊の聲」。

これら三作を読むに耐えない書として、まとめて屑篭に放り込むのはまあいいだろう。態度が一貫しているから。しかしどれか一作を称揚し、他は捨てて省みないというのはちょっと解せない。

この三作の共通点は、一読肌に粟を生ずるということだ。

――いやあそんなことはないよ、読み返すたびに恍惚とした気分に包まれてもうタマラン、という人も広い世界のことだからいないとも限らないけれど、そういう人は放っといて、この三作にいかなる共通点があるかというと、それは現人神の顕現を保証しているということだ。

そんな存在はおぞましい。しかし心の奥には、そういう存在を渇望し、その足許に拝跪したいという気持ちが潜んでいるのかもしれない。それを遠慮なく抉りだしたところに「肌に粟」の正体があるのだろう。クザーヌスやトマス・アキナスが思弁に思弁を重ねて神を不可知の彼方に放逐したのも、もしかしたらそんな恐怖のためだったのかもしれない。

「英霊の聲」と「仲間」と「小説とは何か」が仲良く一巻に同居する三島由紀夫選集というのは、おそらく空前絶後ではなかろうかと、編者の東さんは自慢してるが、確かに(「仲間」はあとで触れるとして)「英霊の聲」と「小説とは何か」のカップリングは色々なことを考えさせる。(カップリングとしては「英霊の聲」の方が受かな? 小説とは何か×英霊の聲。)

たとえば「小説とは何か」にはこんなことが書いてある。

もっと熱心でまじめな読者が、ついに小説作品と倫理的関係を結ぼうと熱望するにいたるのは自然であるが、……小説の最終的責任はそこまでは及ばない。そこまでは及ばない、ということを、しかし作者は、作品のどこかに、こっそり保証しておかなければならない。(p.287)

 
ここで「倫理的関係」とは、「小説内の倫理を読者が自らの倫理とする」というような意味だと思う。では「英霊の聲」に上の引用で言っているような「保証」はあるのか、というともちろんある。「こっそり」どころか赤裸々にある。三島は言行不一致のひとではなかった。

他でもない、作品の終わりにズラズラと並べられている参考文献だ。「この短篇はこれらの文献をもとにして書かれたフィクションですよ」と言わんばかりなあのリスト――