「豪奢な性の人工楽園」

 
「中村真一郎の会」編纂による「中村真一郎手帖」を一読した。思えばこの人の新刊を追っかけなくなって随分になるような気がする。「〜手帖」巻末の著作目録でチェックしてみると、1992年の「文学としての評伝」までは七割方読んでいるものの、それ以降に出た本で読破したものは一冊もない。なぜだろうなぜかしら。今となってはその原因もよく覚えてはないが、あるいは「仮面と欲望」あたりのせいだったのかもしれない。いや違うかな?

それはともかく、「〜手帖」では、沓掛良彦氏のエッセイ「中村真一郎と王朝文学」の中の、「老木に花の」紹介文に心を惹かれた。「八十代の老翁である大納言と齢古希を過ぎた官女をはじめとする貴族たちが、延々と性の狂演、狂態絵巻を繰り広げるというその内容には、老骨の身は辟易させられたが、それだけでこの作品を片付けてはなるまい。華麗な文体を駆使して物語られるこの小説は、言ってみれば、性と愛の問題を終生の文学的テーマとした作家中村真一郎がしつらえた、豪奢な性の人工楽園であろう(その実、人工地獄かもしれないが)。」(p.51)

性の狂演! 豪奢な性の人工楽園! いやあいいですなあ。というわけで、さっそく買って読んでみました。

 
えーとしかし読後感は期待していたものとは全然違った。あえて卑見を述べれば本書は徹頭徹尾知的操作の産物で、要するにこれは"My Secret Life"などの英国ヴィクトリア朝ポルノグラフィーの世界を平安朝のデカダンス期に移植した一種のパロディーだ。でもパロディーという言葉はあまり適切ではない。作者がかねがね親しんでいる東西二つの文学的世界を一堂に会させたらどうなるか、という一種の遊びと言った方がいいのか? あるいは頽唐期のローマ帝国を舞台にしながら「枕草子」などを下敷きにしていると思しきパスカル・キニャールのアプロネニア・アウィティアの柘植(つげ)の板 と好一対と言えるかもしれない。

そういった斬新な趣向に加えて作者一流の学識を駆使した例の一見天然ボケ風の注釈が縦横無尽に乱入するものだから、これはもう往年の中村真一郎ファンにはたまらぬ本となっている。

しかし、ヴィクトリア朝地下文学を貪るように耽読した人以外には、この「老木に花の」での本歌取りはあまりピンと来ないかもしれない。それが分かるということは、かなり恥ずかしいことなのかもしれない。しかし中村真一郎自身も「読書好日」に付された「淫書を読む」でその「淫書」マニアぶりを遺憾なく開陳しているし、最近出た本では若島正氏の殺しの時間-乱視読者のミステリ散歩にも"My Secret Life"へのオマージュがあったりするから、そんなに恥ずかしいことでもない……ような気もする。しかしまだ人前で公言する勇気はないね。

まあそういうことは深く考えないことにして、ともかく自分の作ったルールのもとで無心に遊ぶ中村翁の姿は、きわめて爽やかであり感動的だ。なにやらあのチェスに興ずる二人を歌ったボルヘスの詩さえ連想させる。澁澤龍彦の訳した例の詩である。