倉阪論メモ(1)

汝らその総ての悪を

汝らその総ての悪を

 
ページの上の文字は本来は死んでいる。
論より証拠、外国人の目で、あるいは幼児の目で眺めてみるとよい。そこにあるのは丸や四角が整然と並んだ、月下の大墓地さながらの光景ではないか。
それは我々が読むことにより蘇生する。文字は文字であることを止め言葉に化身する。ある種の文章ではその化身が読者に意識されることなく、あたかも最初から生きていたかのように読者に読まれる。他の種類の文章では、文字を言葉に化身させるのに読者側の積極的な努力が要請される。しかしどちらにしても、読まれることの目的が文字を蘇生させることにあるのに変わりはない。
ところがここに倉阪鬼一郎のテキストという、文字と言葉のあわいに棲息するものがある。それは吸血鬼であり、生と死の両態を往来する。世界はそのあわいから眺められる。そして文字⇔言葉というかたちの生死の移り変わりは、同時に登場人物の生死にも共鳴/感染していく。「汝らその総ての悪を」の赤く塗られた旧約聖書