タルホマニア拾遺録(4) 親殺しのパラドックスの巻

 
タイムマシンで未来(あるいは過去)へ行った先で出会った人が、実は自分自身の将来(あるいは過去)の姿であった。これはタイムトラベルもののSFでよくある筋だが、タルホ作品にも、これと似た印象を受けるものがある。といってもタルホ自身が意図的にそうした効果を狙っているのでは必ずしもない。タルホには有名な改訂癖、つまり昔書いた作品をいじり倒すくせがあって、その結果、将来が過去に干渉し、過去が改変されるのだ。

典型的な例は「弥勒」であろう。松山俊太郎が評論「弥勒から弥勒まで」*1で論ずるところによると、「弥勒」のなかには松山氏が「絶対に認められない」改訂があるという。それはどこかというと、第一部の終わり近く、ある夫人との対話で、作者の分身たる江美留がこう言うシーンだ。「若しも、地球という遊星に何らかの功績があったとすれば、それは只一つ、未来仏の預言を出したということだけですね」(全集七巻、p.261)

ところが松山氏によれば、この部分が今の形になったのは、『稲垣足穂大全Ⅳ』(一九七○)以降のことで、それ以前のヴァージョンではこの「未来仏の預言」が「あの預言者」となっているという。すなわち「地球の只一つの功績」が初期ヴァージョンでは「キリストの出現」であるのに、現行ヴァージョンでは「弥勒の預言」になってしまっている。松山氏がこれを納得できないとするのは、この段階で弥勒を出してしまうと、次のシーン(全集版p.262)で主人公が言う「ゆうべ話したのは嘘でした」という言明が意味をなさなくなってしまうからだ。

つまり、やや大げさに言えば、現行ヴァージョンでは弁証法的な思考のダイナミズムが殺がれてしまい、結論先取になってしまう。江美留に弥勒というアイデアを思いつかせるのは、「あの預言者」(キリスト)のことを夫人に話してしまった悔恨が動因となっているのに、それを改変して「弥勒というアイデア」(=未来仏の預言)を当初から持っていたことにしてしまうと、肝心の弥勒というアイデアを思いつく動因が失われてしまう。すなわちタイムマシンでいう「親殺しのパラドックス」に似たパラドックスが現出してしまうのだ。

……それはまさしくその通りなのだが、「これでよいのだ!」という気も一方ではする。頭もなければ尾もない宙吊り状態、自分の母が同時に自分であるという広瀬正「マイナス・ゼロ」めいたものこそ、タルホ宇宙ではないかとも思うから。
 

*1:もともとは『がんじす河のまさごよりあまたおはする仏たち』(第三文明社、一九七五)の解説として書かれたものだが、今は河出書房新社の「新文芸読本 稲垣足穂」で読める。