タルホマニア拾遺録(3) マキノ・ツバキ・タルホ聖三角形の巻

牧野信一全集〈第3巻〉大正15年9月~昭和5年5月

牧野信一全集〈第3巻〉大正15年9月~昭和5年5月

 
筑摩の全集に入っているタルホ作品のなかで、一篇だけ尻切れとんぼ(未完)のまま収録されているものがある。第十二巻収録の「河馬の処刑」だ。この作品の雑誌発表時の題は「河馬の銃殺」というのだが、いったいなぜこの作品は、「未完」という、タルホ作品としては珍しい状態のまま放置されたのか。そのいきさつを、椿實が「聖母月の思い出」というエッセイで書いている(幻想文学会出版局「タルホ・スペシャル【別冊幻想文学3】」に収録)。当時(昭和二十三年頃)、中井英夫らの第十四次新思潮に関係していた椿は、タルホマニアだったこともあって、足穂からこの原稿を取ってきたのである。

このエッセイの中で、

……河馬も出てこなければ、銃殺にもならないで(未完)となる。
 つまり始めがよければ、それで完全にわかるはずの小説なのである。私は勝手に、ローマの政治家がおっぱいのたるんだカバの如き美女に銃殺され、ミイラになってゆく姿を幻視するのであるが…… 

と、椿は書かれなかった結末を幻視している。でもこの「幻視」は一体どの程度当っているのだろう? それは近刊(のはず)の「別冊ユリイカ 稲垣足穂」を見れば一目瞭然である。なんとこの作品(正確に言えばこの作品の原型)の完全版の発掘に成功し、「ユリイカ」に載っけた人がいたのだ。

しかしまあそれはそれとして、足穂が考えた結末に負けず劣らず興味深いのは、一体椿はどこからこの「幻視」のインスピレーションを得たかということだ。それを解く鍵は、やはり「別冊ユリイカ 稲垣足穂」に載る筈の足穂のエッセイ「椿實の快速調」にある。このエッセイには、牧野信一の「山彦の街」の素晴らしさを足穂に向って縷々語る椿の姿が描かれている。
そう、「山彦の街」! これこそ牧野が足穂に最も接近したと思われる奇妙奇天烈な作品なのである。同時に、牧野の頭のなかではこんな風な世界が日夜展開していたのか、やはりマキノは凄い、としみじみ感じさせる小説でもある。
ということで、きっと椿の頭のなかで、心酔していた「山彦の街」と未完の「河馬の銃殺」が共鳴したのだ。そしてそのため、あのような結末を「幻視」したのだろう。
足穂好きの諸君は、すべからく「山彦の街」も読んでごろうじろ(牧野全集第三巻収録)。そうすればこのマキノ=ツバキ=タルホの共鳴につられて、自らのこころもまた共振するという、他では得がたい文学的体験ができるはずだ、きっと。