タルホマニア拾遺録(2) 栴檀は双葉より爆発の巻

牧野信一全集〈第6巻〉昭和10年4月~昭和11年7月

牧野信一全集〈第6巻〉昭和10年4月~昭和11年7月

 
昭和十三年、困窮の極にあったタルホに突然Saintの啓示がやってくる。

 石鹸を使うまでの気力は到底なく、ようやく湯槽から引き上げた身体を脱衣場に運んで、所々を押さえるように拭いていたが、このとき突然Saintという五字が脳裏に閃いた。(「弥勒」)
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 今まで最高の人間的存在だと思いこんできた芸術的天才の上に、それを遥かに凌駕した聖なる階級――それは理性よりもなお高い平和の裡にあり、不幸と窮乏と迫害とのさなかにも喜びに満ち溢れた一群がある――ということに、彼はこの瞬間から気がついた。(「世界の巌」)

そして一気に「弥勒」のあの有名な宣言にまで行きついてしまう。

 それならば、あの耳飾りと宝冠をつけた銅版刷の菩薩も、二十世紀に立ち返っているのではなかろうか、と彼は考えてみた。ではそれは何処に居る? 細く新月形に光った金星の尖端に、木星の表面をじりじり冬の蝿のように匍って行く衛星イオの陰影のなかに、(中略)そうしてまたこう考えている自分の大脳の中にも、おそらく数ミクロンの光束となって納まっている? ここにおいて江美留は悟った。婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を托された者は、まさにこの自分でなければならないと。

この「弥勒」という作品、田舎で幻視者として育った青年が上京して嫌というほど辛酸をなめる、という筋だけから言えば、マッケンの「夢の丘」とパラレルなのだが、結末のベクトルは正反対である。上の引用を読んで「うーむ凄い」と思うか「よく言うよ」と思うかは人によって違おうが、ここにタルホの思想的強靭さがあることだけは否定できまい。しかしこれは悟りとか回心とかいうものとはちょっと違う。あえて言えば「初心に帰った」というほうが実態に近いのではあるまいか。
というのは他でもない。近く別冊ユリイカとして出るはずの稲垣足穂特集にタルホ十七歳(中学四年)のときの作文が載っているのだが、そのなかにこんなくだりがあるのだ。

十一 理想の実現

 一大事出来!! 轟然たる大音響! 全宇宙震撼せり! この為星の衝突するもの無慮数千万、幾重不明その幾憶なるを知らざる也、忽ち嘹喨として妙なる奏楽起り、翩々と花降り下りて霊香六合に充ちぬ、此処に偉大なる神の大コンパス現れその絶大なる力もて限りなき半径に大円形を描けり、やがてこの円中に燦然たる宇宙大文明国ぞ建設せられけり、民その中心に直径五万哩の大ダイヤモンド光り輝けるを見たり、此れ何ぞ! その名を称してミスター、イナガキ、タルホとなす。

これは「誇大妄想十一篇」と題された作文の結末部分だが、まあなんと「弥勒」の結末に似ていることだろう。この作文にはその他にも「此の大偉人に向って容易く口をきくと云うのが間違っている」とか「後になって俺が何んなに豪いかを知って熱が出て医者よ薬よと騒いでも俺は知らないよ」とか「実際俺の徳を讃うべく地上の言葉は余りに貧弱でその権威を失している」とか、抱腹絶倒のフレーズが頻出している。
つまり冒頭のSaint体験は、宗教への回心というより、自らの詩人の心の追認というべきものだ。しかしなぜこれが詩人の心なのか? 論より証拠、ポーが「ユリイカ」で滔々と語る大演説を聞きたまへ。

 いやしくも思考する人間にして、その思考生活の輝かしいある時期に、己れ自身の魂よりも偉大なものがあろうなどという考えを感得しよう信じようとして空しい努力を続け、その激浪に呑まれて途方にくれた、という経験のない人はありませぬ。一つの魂が己は他の魂よりも劣っていると自覚することのまったき不可能さ、かかる考えに対する強烈な、圧倒的な不満と反抗、――これらは、何人の心にもすくっている完全性への憧憬と相俟って、原初の単一に向かおうとする精神的苦闘なのであり、かつ物質の同様の苦闘と符節を合するものなのであり――これは、少なくとも私には、いかなる魂も他に劣っていないこと――任意の一つの魂より優っているものは存在しないし、ないしは存在し得ぬこと――おのおのの魂は一部分、自らの神、自らの創造者にほかならぬこと――一口に言えば、神は、物質的ならびに精神的神は、いまや拡散された宇宙の物質ならびに精神のうちにのみ存すること――しかしてこの拡散された物質ならびに精神の再聚合は純然たる精神的個一的神の再構成にほかならぬこと――これらのことに対する証拠と思われるのでありまして、この証拠は人間が論証と命名しているたぐいのものよりもはるかに有力なものだと考えているのであります。

あるいはその最終節は実に「弥勒」ソックリだ。

 個別的同一性の観念は徐々に普遍意識のなかに融けこむにいたるだろう――たとえば、人間は徐々に自らを人間と感じなくなり、ついに自らの存在をエホバの存在と認識する恐ろしきまでに勝利に充てる日を迎えるにいたるだろう、と考えてみよ。その日まではともあれ、小は大のうちに、一切は神霊のうちに宿りつつ――一切は生命裡の生命――生命――生命なることを忘れるな

つまりこれは仏教とかキリスト教とはあまり関係のない、詩人の心としか言いようのないものだろうと思う。