ピデリット『擬容と相貌学』

「或は、そうかも知れんがね」と法水は莨で函(ケース)の蓋を叩きながら、妙に含む所のあるような、それでいて、検事の説を真底から肯定するようにも思われる――異様な頷き方をしたが、「そうすると、さしずめ君には、ピデリットの『擬容と相貌学(ミミック・ウント・フィジオグノミーク)』でも読んで貰う事だね。この悲痛な表情は落ちる(フォール)と云って、到底自殺者以外には求められないものなんだよ」そう云ってから垂幕を強く引くと、頭上に鉄棒の唸りが起った。「ねえ支倉君、ああして聴えて来る響が、この結節を曲者に見せたのだったよ。何故なら、レヴェズの重量が突然加わったので、鉄棒に弾みがついてしない始めたのだ。すると、その反動で、懸吊されている身体が、独楽みたいに廻り始めるだろう。(創元推理文庫版p.593)

 
先日取り上げた『北欧伝説学』や『古代楽器史』とは違って、この『ミミック・ウント・フィジオグノミーク』なる本は実在が容易に確認できる。のみならず、これはある程度有名な本のようで、例のホッケの『文学におけるマニエリスム』でも言及されている。ただこの標題を持つ本は二冊あり、それぞれの正式なタイトルは"Grundsaetze der Mimik und Physiognomik(表情術と観相術の原則)"(1858)および"Wissenshaftliches System der Mimik und Physiognomik(表情術と観相術の学問的体系)"(1867)という。虫太郎がどちらを指しているのかは不明。もしかしたらこの二冊は中身がほとんど同じなのかもしれない。そこらへんは後者しか持っていないのでよく分からない。後者の序文を読む限りでは、前者と後者は一応違う本のようだが……。

Mimik(英語のMimicry)は、普通「模倣・擬態」という意味だが、この本の表題における意味は少し違う。たとえば俳優は喜怒哀楽などの感情を表情で演技するが、ここでいうMimikはそういった表情術あるいは表情学を表わす。そして著者は、人の話す言葉は国によって異なるが、喜怒哀楽などの表情が表わす言葉は万国共通だと主張している。
またPhysiognomik(観相術あるいは観相学)という言葉も著者は特殊な意味で使っていて、耳や鼻の形態や骨相により性格を判定する普通の意味での観相術については否定的な見解を取っている。それに対して、人の思っていることを表情の変化から見取るのは信頼できると著者は言う。たとえば関心あることを聞いたときには誰でも目が輝くではないか。したがって観相術というものがもしあるとすれば、人の性格は筋肉によって動かせる部分、つまり目や口で判断するしかない。なぜなら特定の性格は特定の表情を作る機会を多くし、それによって顔の筋肉の中でもよく使う部分が自ずから決ってくるので、年月につれてそれが顔貌に反映してくるから。ただノイズも入るので注意が必要である(たとえばレンズ磨きなど職業上目を酷使する人は性格の如何を問わずそれ風の顔つきになる)、と著者は言っているようだ。

ここで『黒死館』の上記引用文に戻るが、まず"Wissenshaftliches System der Mimik und Physiognomik"にはもちろん「自殺者特有の表情」などは出てこない。法医学の本ではないので当然である。ただMimikを「擬容」と訳している点、およびこの本が人間の表情を扱った本であることを知っている(「この悲痛な表情は落ちるといって……」)点から推すと、虫太郎はおそらくピデリトの現物を読んだか、あるいはそれについて書かれた本を参照したのだと思う。というのは、書名だけからはこれが「表情」に関する本であることは分からないし、したがってミミックを擬「容」と訳すこともあるまいから。




 
ところで余談だが、一般に虫太郎は「悪文家」とか「小説が下手」とか言われている。もちろんそう言われても仕方ない作品は多々あるが、『黒死館』だけは少し違うのではないか。
そのよい例が上の引用文の「法水は莨で函(ケース)の蓋を叩きながら、」以下のくだりである。情景が浮んでくるような上手い描写だ。この描写といい紀田順一郎が「密室論」で引用したカーテンから埃の落ちる描写といい、細かな観察眼が光る描写が『黒死館』のあちこちに見られる。幻視的な描写も鮮やかさは言うまでもない。名文かどうかはしばらくおくにしても、楽しんで読める文章であることは間違いないと思うが……