鏡と父性は怖ろしい。それから蓮画像も。

大掃除はまだ終わらない。マリオ・プラーツがスペイン旅行記の中でこんなことを書いていた。舞台はアルハンブラ。ハンス・ハインツ・エーヴェルスがポーのグロテスクについて瞑想に耽ったのと同じ場所である*1

アルハンブラの)世界が込み入っているのは見かけだけで、実際は一つの音しか響いていない。それはちょうど、千夜一夜物語を読み進むうちに、人名や出来事の多彩さに隠された根本的な単調さが露わになってきて、果ては感知できぬほど差異が希薄となり、全てが同一平面上に並ぶのに似ている。[…]何枚かの硝子片から作られた万華鏡のように、この世界は全て、その要素の無限の組み合わせを許す。[…]東洋が我々にもたらしたものは、十八世紀に大いに流行した入れ子構造になったチャイニーズ・ボックス、枠の中で連環する物語、並行的位階を持つ天使たち。東洋の心は無限の概念を、似たものの限りない反復を通して、量的かつ数学的な過程だけで表現しようと試みる。[…]東洋的心性が開かれた非組織的形態を好むとすれば、西洋は閉じた組織的形態を要求する。[…]もしヨーロッパの美術が東洋美術に接近したことがあるとすれば、それはバロックの時期においてであったろう。[…]アラベスクと同様に、「コンチェット」は自己充足性のうちに孤立する。形而上学詩は自らをマドリガルの連鎖の中、装飾的言葉遊びの多彩の中に溶解させる。[…]なぜジャンバッティスタ・マリノの「アドニス」はあれほど多くのカントからなり、他に何もないのか、なぜ各々のカントはあんなに多くのスタンザからなり、他に何もないのか、[…]それは蛇のように展開し、たとえ蛇の体が無限に伸びようと、それを禁ずる理由は何もない。しかし哺乳類や人間の身体はそのような延長には耐えない[…]

論旨は、G.R.ホッケが「文学としてのマニエリスム」で展開するアッティカ風/アジア風の対立に似ている。しかし、そのアラベスクな無限反復性、増殖可能性に着目しているところは異なる。同一性の基盤を揺るがす無限の複製反復の恐怖と魅惑。ひところウェブ上で話題になった蓮画像も、(恐いので見ていないけれど)おそらく同種の恐怖と魅惑を引き起こすものだったのだろう。「鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し拡散させるからである」とボルヘスは書いた。ジッドもまた、一度に何十億もの卵を産む下等動物への嫌悪を「コリドン」の中で書いていた、と思うがテキストが見つからないので確認できない。

*1:日夏耿之介「洛陽之酒徒ポオ」