叙述トリックの創始者

 ボードレールの散文詩「異邦人」に触れている高遠先生のブログを見ていて思い出したことがあるのでちょっとメモ。まず問題の散文詩を福永武彦訳で引く。


  異邦人
 
――君は一体誰が一番好きなんだ、え、謎のような男よ? 父親か、母親か、妹か、それとも弟か?
――僕には父も、母も、妹も、弟もない。
――友達か?
――君は今日の日まで、僕がその意味さえ知らない言葉を使った。
――祖国か?
――それが如何なる緯度の下にあるのかさえ、僕には明らかではない。
――美人はどうだ?
――そう、もし不死の女神ででもあることなら、悦んで好きになりもしようが。
――金は?
――君が神を嫌うように、僕はそいつが大嫌いだ。
――何と! 一体それじゃ何が好きなんだ、不思議な異邦人よ?
――僕が好きなのは雲さ……。流れて行く雲……あそこを……あそこを……あの、素晴らしい雲なのさ!
  (『パリの憂愁』岩波文庫版p.9)

 
 ここでちょっと話がそれるが、密室・意外な犯人・ワトソン役の設定・暗号・一人二役・錯視・心理の盲点などなど、ポーはミステリの基本型の大部分を創出したと言われている。〇〇〇即〇〇のトリックも、もしディケンズに先を越されなかったら必ずやポーは自らの手で書いていただろうと誰かが言っていた(乱歩だったか?)。

 しかしそのポーさえいわゆる「叙述トリック」には手をつけていない。叙述トリックと呼ばれる一連のテクニックはもっと後に発明されたと一般には考えられており、世の中には「ドイルの時代には叙述トリックはなかった」ことが犯人推定の手がかりになっているミステリさえあるくらいだ。

 しかしあにはからんや、ポーと同時代に、大西洋の向こう側で虎視眈々と挑戦の焔を燃やす一人の男がいたのである。ほかでもない、世界中で誰よりも早くポーの真価を見抜き、後にそのほとんど全作品を仏訳することになるボードレールである。

 さて、上の引用文を読んでどういう情景を思い浮かべるだろう? 作者その人を思わせる詩人が公園のベンチか何かに寝転んでいる。そこに誰かおせっかいな人(おそらくは詩の何たるかを解さない俗人)が詩人をうるさく質問攻めにしている。そんなところだろうか。しかし、実は、そう思ったあなたはまんまとボードレールの叙述の罠にかかっている。

 論より証拠、同じ文章をネタバレ気味に訳している齋藤磯雄訳を見てみよう。


   よそ者
 
――君は一体誰が一番好きなんだい、為体(えたい)の知れぬ男だな、え、親父さんかい、おふくろさんかい、妹さん、それとも弟さん。
――わたくしには父も、母も、妹も、弟もございませぬ。
――友達かい。
――いまおつしやつたその言葉の意味が、どうにも今日の日まで呑み込みかねてゐるのです。
――祖国かい。
――それが緯度の何度あたりにあることやらわたくしは存ぜませぬ。
――美人かい。
――そりゃ心から好きにもなりませうね、女神のやうな不滅の美女でしたら。
――金かい。
――嫌ひです。ちようどあなたが神を嫌っておいでのやうに。
――へええ、それぢや一体何が好きなんだい、さても変つたよそ者だ。
――わたくしは雲が好きです……流れてゆく雲が……向ふの方を……向ふの方を……あのすばらしい雲が。
  (『パリの憂鬱』三笠書房版p.18)

 つまりボードレールその人が質問者であって、答えているのはどっかの(たぶん)薄汚い浮浪者のおっさんか何かなのだ。質問者は一貫して回答者にtuで呼びかけ、回答者はそれに対してvousで答えていることから両者の関係が読み取れよう(その意味ではvousを「君」と訳す福永訳はちょっとまずいような気もする)。

 某フランス叙述トリックミステリの名作『〇〇〇〇〇』では、一連のせりふの話し手を最後まで誤認させつづけることに成功しているが、このボードレールの散文詩も、その大先輩たるにふさわしい華麗なテクニックを披露しているではないか。フランス人というのは、こういうのが好きなのかしらん。もっとも『〇〇〇〇〇』の先行訳がそうだったように、叙述の種があからさまにばれるような齋藤磯雄の訳しぶりには賛否両論があろうけれども。