赤い竪琴は恋愛小説なのか?


赤い竪琴

赤い竪琴

 
一人の作家を他の作家と比べるのは失礼極まる行為だとは重々承知しているが、津原泰水さんのこの作品は久生十蘭にとても近いところにあるような気がする。洒落たペダントリーや首尾一貫して見事に均質な文体は言わずもがな、異界(この作品の場合は亡き祖父)との交感はたとえば「生霊」を思わせるし、抑制された、そしてそれゆえに結晶化された愛の物語はまるで「湖畔」のようだ。
「湖畔」…と言えば北村薫が「ミステリは万華鏡」で提出した論点がここでも問題になる。つまり一人称の語り手が語るハッピーエンドは果たして客観的にもハッピーエンドなのか。脳内ハッピーエンドではないのだろうか。小説の終わり近くで語り手は「私の幻聴は日常化している」と書いているが、それならば、もしかしたら、それに続く文章の中にも幻聴が混ざってはいないのだろうか?
そう考えると、ちょっと見には、この作品は「湖畔」風のリドルストーリーのようにも思えるが、たぶんそれは誤読だろう。「湖畔」との大きな違いは、語り手の現実認識能力が正常であることが作中で保証されていることだ。なにしろ語り手は自ら「私の幻聴は日常化している」と、自分が聴くものが幻聴であることを認めているのだから。
早くもp.68で語り手は「のちに私と一体化する」と大きなヒントを与えている。それから、幻児が邦にあてたメッセージ「吾、永劫に汝がうちに潜まむ」、そしてそれを聞いた語り手の反応が最終的な解答を与えている。一見恋愛小説の皮を被ったこの小説は、魂の交感、おそらくこれまでに何人も文章に定着し得なかった魂の交感を描く神秘小説で、十蘭で言えばおそらくは「湖畔」より遥かに「生霊」に近いものだ。