「蛇」ISBN:4878935146


エリアーデ幻想小説としての処女作『令嬢クリスティナ』が伝統的コードに則った端正な吸血鬼小説であったのに対し、次いで発表された『蛇』は早くも作者の本領が全開発揮されていて、「エリアーデ小説」としか名づけようのないものになっている。そのおおまかなストーリーは沼野充義氏による本書解説によれば、

ここでまず繰り広げられるのは、結婚をめぐる思惑や既婚男女間のちょっとした戯れといったもので、それは結局、皮相なブルジョア的な社交の世界である。[…]しかし、物語はその皮相な世界にアンドロニクという青年が突然介入することによって、俄然、別の次元を帯び始める。[…]この「異人」は[…]俗っぽい世界に突如秘密を持ち込むことにより、この世界は解読されるべき秘密に満ちた新たな相貌を開き始める。そして世俗的な結婚を目の前にしていた若いヒロインは、彼に誘惑されるかのように、湖水を渡って島と言う異世界に導かれ、[…]俗にまみれた日常世界の表層をかなぐり捨てるのである。こうして、[…]俗世界から、物語はそれと異なる時空間(それを聖なる時空間と読んでもいいだろう)の中に読者を置き去りにして終わるのだ。(本書p.530)

付け加えれば、ここで登場する蛇は、その古典的性格付け(=禁じられた知識への誘惑者)から、そう外れていない役割を与えられているようだ。
しかしながら、こう奇麗にまとめてしまうと、この小説の魅力はほとんど伝わらない。エリアーデの小説は、われらが石川淳の諸作品と驚くほど類似している。それらは執筆と同時並行的に思考が進んでいく「精神の運動」であって、それこそ蛇のようにうねくりながら出たり入ったりする脇筋の数々が、往々にしてメインプロットよりも重要なのである(その意味ではあらすじの紹介などあまり意味がないのかもしれない)。そして石川淳の小説と同じく、精神の運動が停止した時点で、物語はブツっと途切れたように終わる。そして石川淳の小説と同じく、それはなまなかな解釈を拒否する力を持っている。人は奇跡を目の当たりにしたときのように、それをただ「体験」する他ないのだ。
だから、こういうのを初めて読む人はたぶん戸惑うだろう。それではなはだおせっかいながら、事前にこれだけは心得ておくといいかも、という「エリアーデ小説の三原則」を考えてみた。

エリアーデ小説の三原則
第一条 時間は素直には流れない。登場人物はそれぞれ固有の時間を持つ(こともある)。
第二条 空間も素直には広がっていない。突如見知らぬ場所が現れても驚かないように。
第三条 人格は固定してない。「この人はこういうキャラ」と予断を持つと痛い目にあう(こともある)。

そして、これらすべては、おそらく「聖は俗の中に隠されながらも顕現している」というエリアーデ一流の確信からの帰結であるような気がする。
第一条のように時間を扱う小説としては、カルペンティエールの諸作品がまず思い浮かぶ。しかしそれらとエリアーデは全くといっていいほど異なっている。エリアーデ作品で時間が素直に流れないのは、実験精神や文学的技巧や受け狙いのためではない。そうではなくて、単に作者自身が時間をそうとしか感じられないからそうなっているのであって、その意味では中井英夫『悪夢の骨牌』にむしろ近い。
また、P.K.ディックのある種の作品(『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』や『火星のタイムスリップ』)とも、一見似ているようで全然異なっている。つまり、エリアーデ作品で時間や空間がリニアに知覚できないのは、精神障害や幻覚剤のためではないのだ。あくまで素で(自然体で)そうなのである。つまり上記第一条から第三条の現象が起きるのは、意識が混乱しているからではなく、意識が正常であるからこそそうなのである、というスタンスなのである。
それから、登場人物が同じ時間を共有していないこともある。この作品で言えば、主人公アンドロニクは、おそらく、ボルヘス「不死の人」に出てくるカルタフィウスのそれのような無時間を生きている。ヒロインのドリナはそれに対して円環的な時間を生きているようだ。物語はドリナがアンドロニクと会うのはこれが初めてではないようにほのめかしている。(続く…かもしれない)