『ヴェネツィアからの誘惑―コルヴォー男爵少年愛書簡』

ヴェネツィアからの誘惑―コルヴォー男爵少年愛書簡

ヴェネツィアからの誘惑―コルヴォー男爵少年愛書簡


まえがきで訳者は言う。

コルヴォーを広く世に紹介したシモンズが、タイプライターで複写した書簡集を古書籍商から読まされて「戦慄を覚えた」といっているが、それは、コルヴォーの手紙が次々と禁断のエロスを謳いあげていたからというだけではなかった。カトリックの信仰に身を捧げることを生涯「欲望」し続けた男が、つまりは常に天を仰ぎ見ていた魂が、一方で地獄の奈落の底を這い回ることを「欲望」していた事実、光と闇が同居する否定しようもない実存、それに、戦慄を覚えたのだ。(p.8)

しかし本文を一読した印象はこれとは全然異なる。あえて「光と闇」という陳腐な比喩を用いるなら、「光」は少年愛の方であろう。例えば次の描写を見よ。

…両腕を大きく広げ、肩を枕に載せて小さなテーブルの上で仰向けになり(その結果、胸と腹と腿がかすかに坂をなす小道を描き、平たく伸ばすときに見える肋骨の断続が見えないのです)、美しい喉笛と笑いを浮かべた薔薇色の顔がのけぞり、一杯に広げた両腕が招くのです。少年は、一つの輝かしい薔薇色の肉の連なりでした――胸、腹、腰、そして(元気一杯に生い茂った濃い千草のただなかに)薔薇色の穂先の槍のような帆柱が覗く、しっかりと合わせた腿。溌剌たる青春と百合の粉末が陶酔的な芳香を放っていました(p.55)

ビザンチン趣味の全開萌え〜。いかにもコンスタンチノープルはすぐそこのお隣といった感じの文章でしょう。事実、コルヴォー男爵にとって、ヴェネチィアはすでに西洋ではなかったらしい。

当地ヴェネツィアの人間は、東洋人がすべてそうであるように(彼らは実際には東洋人です)ひどく人見知りするのです。緊張を解き思いのままにやらせるには、時間がかかります。いざそうなれば、彼らは徹底的にやります(p.18)

ところで人も知るように、カトリックとは複雑なシンボル操作の所産、一つの巨大な観念体系である。パンは肉であり葡萄酒は血、父は子にしてかつ精霊、etc.,etc.,etc. そのカトリック者が「快楽」を追求しようとするとき、それは観念の放蕩になりがちなのではないか。クロソフスキーの『ロベルトは今夜』ISBN:4309201040れるように…。彼らの大親分であるサドにさえ、「そんな小難しい理屈を言いながら女を苛め倒して面白いのか? 自らの観念の奴隷になっているだけじゃないか?「快楽」という記号を追い求めているだけじゃないのか?」と小一時間説教したくなる気持ちを拙豚は抑えきれない。カトリックの人にとっては、もし「純潔」という観念がなければ「純潔を汚す」という快楽も存在しないのではないか。
そういったカトリック者にとって、少年愛とは、観念の網も届かない一種のゼロ地帯、介在物なしに快楽そのものに直接出会える貴重な場所だったに違いない。「後悔」とか「後ろめたい」といった低次の感情とは無縁な、無垢な喜びに溢れているこの書簡を読んでいると何やらそのように思えてくるのである。
あと、極貧生活と少年愛の共存には、なにやらわれらの稲垣足穂が連想されるところもあるがそれはまた次の機会に(゜(○○)゜) プヒプヒ。