『生体埋葬(バリード・アライブ)』(フランツ・ハルトマン) ISBN:0766128873

この奇書について語るべきことは多い。しかし夜もだいぶ更けたことだし、今夜は虫太郎との関わりを少し触れるだけにとどめようと思う。黒死館では、この書は次のように引用されている。

次に、死後脈動及び高熱に就いては、絞首――廻転――墜落と続く日本刑死記録に於いても、相当の文献があるのみならず、ハルトマンの名著「生体埋葬」だけでも、有名なテラ・ベルゲルの奇蹟(心臓附近のマッサージに依って、心音を起こし、高熱を発せりと云うファレルスレーベンの婦人)や匈牙利アスヴァニの絞刑死体(十五分間廻転するがままに放置したる後引き下ろしてみると、その後二十分も脉動と高熱が続いたと云う一八十五年ビルバウアー教授の発表)が挙げられているように、窒息死後、廻転するかして死体に運動が続けられる場合は、高熱を発し脈動を起す例が必ずしも皆無ではないのである(創元推理文庫版p.419)

ここで引かれた二例のうち最初のテラ・ベルゲルの方は、拙豚の所持する生体埋葬1895年版には出てこない。後にこの本の増補版が出たか、虫太郎の出典の勘違いか、あるいは虫太郎が依拠した二次資料が出典を勘違いしていたかのいずれかであろうと思う。もう一つのアスヴァニの方は、原文ではこんな感じになっている。

1885年頃、アスヴァニー(ハンガリー、ラーブ地方)の若者が四件の人殺しを行った廉で絞首刑に処せられた。立会人の医者が絶命を宣告してから死刑執行人コザレトが死体を回収するまでの十五分ばかりの間、死体は宙吊りのまま放置されていた。それからラーブ市の医者シコール博士が検死を行ったが、生命の兆候が見られなかったので、死体は棺に入れられ市立病院へ送られた。そこでビルバウアー博士がそれを素材にして電気を用いる実験を行った。実験は最初のうち何の成果も挙げなかったが、同じ実験を数時間にわたって反復すると、死体は蘇生し、水が飲みたいと要求した。そして彼の意識は完全に回復し、午前11時から午後6時まで生存していた。その後彼は本当に死亡した。(FranzHartmann,M.D. "Buried Alive" Boston, Occult Publishing Co., 1895, p.22)

この原文では、虫太郎の引用と違って死体は回転していないし高熱も発していない。つまり「回転するがままに放置」「高熱が続いた」の部分は、易介の回転と高熱と関連付けるための虫太郎の原典改変なのである。
同種の改変はポープ『髪盗み』の引用にもみられる。

And maid turn'd bottles, call aloud for corks thrice (処女は壷になったと思い、三たび声をあげて栓を探す)

と黒死館にはあるが、ポープの原詩には最後の"thrice"の語はない。これもやはり、後でBanthriceを導き出すための原詩の改変であるのだ。
しかし拙豚は、瞞し絵めいたこの種の操作を「捏造」とは呼びたくない。むしろ事実の「アレンジ」と捉えたく思う。そして拙豚はこれらの改変に、虫太郎のアレンジャーとしての類まれなる才能を見たい。おそらく虫太郎は『生体埋葬』のような本を「ここがもしこうだったら凄く面白くなるのになあ」とか思いながら読んでいたのに違いない。そしてその夢を思うさま実現させたのが「黒死館」なのではないか。
もちろん虫太郎の幻視者としての資質も大いに寄与している。蘇生したハンガリーの絞首刑者と給仕長川那部易介の屍体が彼の脳裏で二重写しになったとき、その幻視を物語に定着させるためには改変の操作が必要不可欠だったのではないか。ちょうどエルンストがコラージュを作るときにもとの絵の一部を切り取ったり別の絵を上から貼り付けたりするように、虫太郎にとって「生体埋葬」のような原典はコラージュの素材にしかすぎず、それらを自由に改変しながら組み合わせることに無上の喜びを見出していたのではないか、と思えてならないのである。(この項続く)



注1「黒死館」本文の引用は素天堂氏のサイト「黒死館徘徊録」http://www5.ocn.ne.jp/~k594k/にアップされているものを使用させていただきました。記して感謝いたします。
注2「バリード・アライブ」等の黒死館蔵書の読みは、虫太郎の流儀を踏襲しております。現地人の発音には必ずしも一致しませんがご了承ください。