『北方の博士・ハーマン著作選』(川中子義勝訳)沖積舎 2002.3.1

神保町東京堂書店の二階をブラブラしてたらこの本が眼に入り驚愕したなり。こんな本が出ていたのか! この特異な思想家、あるいは荒野に呼ばわる預言者、あるいは狂言綺語を弄する奇人の翻訳が出たことを喜び、あわせて翻訳者・出版社・そしてこの売れそうもない本をあえて棚に並べる書店の尽力に感謝す。

このハーマンという御人は一筋縄でいかぬ人物で、拙豚が知る限りでも三通りの側面がある。

1)神秘主義者ハーマン
2)反合理主義者ハーマン
3)キリスト者ハーマン

1)は拙豚が最初に出会ったハーマン像なり。例えばインゼル書店のドイツ神秘主義叢書Der Domがこの線に沿ってハーマンの一冊本選集を編んでおり。その中には「薔薇十字の騎士たちの何とか」という論考もあり。
2)はハーマンを、例えばヴィーコと類縁の思想家と位置付ける考え方で、バーリン氏の『北方の博士 J.G.ハーマン』(みすず書房 ; ISBN:462203655X )はこの立場で書かれており。これはバーリン氏の死後に、遺された草稿や録音テープから編まれた本なれどなかなか面白く、ちょうど中村真一郎芥川龍之介』の如く、短い章を重ねつつ多面的にハーマンに迫ろうとしており。
そして、今回のこの本の翻訳者である川中子氏の立場はおそらく3)ならん。

ハーマンの文章は一癖も二癖も三癖もあり。読解には多大の労力を要す。たとえばこんな感じなり:

 至福の夫婦たちよ、調和の魔力に対し開かれたる耳を閉ざすことなく、まことの預言をなす一人の巫女の声に聴かれよ。我が授けるところの教えは、愛のごとく不可思議に満ち、婚姻のごとく秘密に満てるもの。
 汝らの優しき信頼の眼(まなこ)に、小さく思慮深きかの愛の神を我は見る。彼はその手の業になれる名品につきて、独り心の内に企む。その品とは、彼が構想と獲得と盲滅法の冒険との全ての終わりに心に抱きたるものにして、その目指したるところはすなわち、「我らいざ人間を造らん、我らに等しき姿を」− (婚姻に関するある巫女の試み)

…たぶん「夫婦の務めは子を成すことだよ」と言っているだけと思うが、何かもっと深遠な意味があるのかも知れず。しかしどことなく「我輩は猫である」に出てくる天道公平君の書簡を思わすような文章でもあり(ハーマン先生スマソ)。
 
ハーマンを知らんとするものは、あるいは訳者川中子氏による童話「ミンナと人形遣い」をまず読んだ方がいいかも知れず。下のURLのサイトで読めるなり。氏みずからの手による挿絵が味わいがあってよし。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kawanago/MINA00.HTM

この物語の後書きに川中子氏はこう書いてあり。

 わたくしは、もう三〇年近くハーマンという思想家の言葉を学んできました。そうして昨年は、このひとの本を翻訳する仕事をまとめました。翻訳はようやくできましたが、むずかしい註の沢山ついた本を読む努力と時間をすべてのひとに求めることはできません。彼の言っていることを、十代後半くらいの青年たちにも伝えようとしたら、どうしたらいいか。翻訳をしながら、ずっとそのことを考えてきました。この話しは、そんなとき、あるきっかけから生まれたのです。

最後になったが訳者川中子氏のホームページもなかなか見ごたえがあり。ご参考までにURLを下記す。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kawanago/