ナイトランド・クォータリーvol.33


  
酷暑にも台風七号にもめげずに堂々刊行される『ナイトランド・クォータリー』の最新刊vol.33 の特集は「人智を超えたものとの契約」。今月末に書店に出回るようです。

執筆陣の中では飯野文彦氏の名が目をひきます。もう20年以上前の話ですが、朝松健氏篇のオリジナル・クトゥルー・アンソロジー『秘神』を読んだとき、氏の「襲名」が集中でひときわ光っていたのを覚えています。その流麗な語り口に酔いました。まあ内容はすさまじくアレなんですが……。今度はいったい何をどんなふうに書いているのでしょうか。読むのが怖ろしくもありますが勇気を奮い起こして読んでみようと思います。

不肖わたくしもレルネット=ホレーニアの短篇「ランデヴー」で参戦しております。エディション・アルシーブ版あるいは福武文庫版でこの人の『白羊宮の火星』を読んだ人は、あまりといえばあまりな結末に驚愕したのではありますまいか。私見では麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』に匹敵するような、読んでいる目が理解を拒否するような、ご無体な結末でありました。すくなくとも無理やりな同一性という意味で両作品は共通するのではないでしょうか。

今回の「ランデヴー」はその結末だけを切り離して一篇の短篇に仕立て上げたような趣きのある作品です。これ以上は何も言いますまい。なにとぞご一読のほどを。

ツイッターはじめました


 
前のブログにも書いたように、アカウントがないと他の方のツイートが見られないようになってしまったため、背に腹は代えられず、ツイッターのアカウントを取得しました。
https://twitter.com/puchiere

雰囲気に慣れるまではツイートも控えるつもりですので、あまり面白いものにはならないと思いますが、なにとぞよろしく。

素天堂氏を悼む

ツイッターがXになってからはアカウントのない人は見られないようになった。実生活でもずっと引きこもっていて、すっかり情弱になってしまい、氏の逝去を知ったのも某巨大匿名掲示板からだった。情けない。しかしこの「カーテン・フォール」というのは最高の弔辞ではあるまいか。

五月の文学フリマでにこやかな笑顔に接していただけに驚いた。しかしこう暑いと、いっそ肉体を脱いでさばさばしようという気持ちも少しわかるような気もする。

弔い合戦として、作品社と絹山さんの許可が得られれば、作品社版黒死館の解説を独立させて増補し、挿絵もふんだんに入れて、金に糸目をつけずに、「黒死館大事典」の特製豪華版を作りたい。

高原英理『祝福』


 
高原英理さんから近著『祝福』を贈っていただいた。ありがとうございます。

もらったから言うわけではないが、これは傑作だと思う。少なくとも近来になく刺激的な読書体験であった。十年以上前にこの日記で三日にわたってとりあげた「記憶の暮方」(, , )の発展形の印象もあるこの作品は、幻想文学愛好家・一般文学愛好家ばかりでなくミステリ読みにも全力で薦めたい。

というのは、この連作短篇からなる長篇は伏線が随所に振りまかれていて、ある短篇での些細なエピソードが別の短篇で意味を持っていたり、ある短篇で謎の人物として登場した者の正体が別の短篇で明かされたりするから。そうしたいわばジグゾーパズルのピースをまめに拾い集めて絵を組み立てるのが一番好きなのはたぶんミステリ読みだろう。

「唯物論」「唯名論」「唯幻論」といったタームにならっていえば、この作品での世界観は「唯言論」とでも言うべきものだと思う。まさに「はじめに言葉があった」の世界である。ここで大切なのは意味よりも先に言葉が存在していることだ。別に不思議なことではない。たとえば、「人生に意味はあるのか」と問うより先に人生そのものはスタートしているではないか。

あるいはこうも言える。われわれは意味の分からない詩に心を動かされることがある。意味がわからないどころか、音の(既知の)美しさもリズムの美しさも感じられない詩に心を動かされることがある。それはなぜだろう。意味とか音やリズムの美しさ以前に心を動かすものがあるからではないか。だってそうでなければ、誰も言葉など習得しようとは思わないだろう。

第七短篇の最初から二行目に、「ただ一言がわたしを用いる」とある。ここでの一人称「わたし」はおそらく個人を超越した魂のことである(ちなみにこの個人を超越した魂は第五短篇にも一人称で出てくる)。つまりこの短篇の世界観では、魂は言葉の手先(エージェント)として人の心に降り立つ。つまりここでは、言葉 >(超個人的な)魂 >(個人の)心あるいは意識、というヒエラルキーが存在している。

降り立たれた心は降り立った魂を理解できない。したがって自分勝手に解釈する。そこからネガティブな軋轢も生まれる(その例として三島由紀夫をヒントにしたと思しい人物が出てくるのが面白い)。

あるいは第六短篇に出てくる仏教徒は魂の存在を否定する。人によってその解釈あるいはイメージがあまりに違う仮構的な存在であるからだろう。しかしヒエラルキーの上位にある言葉までは否定しない。仏教のある宗派では「ナミアミダブツ」と唱えるだけで、たとえその意味はわからなくても、救われると教えているようだが、それに似たようなものだろうか。

あるいは言葉が意味を付与されずナマのままで人の口から出てくることもある。それにもかかわらず、意味を持たないままでコミュニケーションが成り立ったりする(第八短篇・第七短篇)。あるいは他者に伝えたいと願ったりする(第四短篇)。

あるいは場合によっては魂はふたたび心を去ることもある(第九短篇・第七短篇)

あるいはその言葉が心によって恣意的に意味を付与され物語に織りあげられることもある(第九短篇)

というふうな非常に面白くユニークな作品である。今から半世紀ほど前、SF界でニューウェーブ運動が華やかだったころ、SFとはサイエンス・フィクションではなくてスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)だと盛んに言われていた。この作品などまさにその意味でのSFと言っていいだろう。ここを読んでいる皆さま方にも一読を乞いたい。

『真夜中の伝統』と『金狼』


 
数人の男女に文面が同じ手紙が届く。「これこれの時間にどこそこに来てください」と書いてある。そして行かざるをえなくなるようなことも書いてある。たとえば「あなたは遺産の相続人になりました」とか、あるいはある種の恐喝であるとか。

そのように集められた、一見無関係と思われる人々のあいだで、やがて事件が起こる。誰が何の目的でそんな手紙を書いたのか?

これは推理小説の一つの定型である。いちばん有名な例はおそらくクリスティの『そして誰もいなくなった』であろう。日本作家によるそのヴァリエーションを思いつくままにあげれば、佐野洋の『貞操試験』、天藤真の『殺しへの招待』、乾くるみの『リピート』……。探せばきっとまだまだあるだろう。

そしてうれしいことに、マッコルランの『真夜中の伝統』もこの定型を堂々とふまえている。「お主なかなかやるな」という感じがする。

なぜこの小説に『真夜中の伝統』というタイトルが付けられたのかは、解説にその推測が書かれている。しかしもしかしたら推理小説のこの定型を踏まえたことを、作者はややシニカルに自虐的に「伝統」という言葉で表したのかなという気もちょっとする。それほどこれは伝統的な推理小説のプロットに沿っている。

ここでは五人の男女が、「あなたは遺産の相続人になりました」という差出人不明の手紙あるいは電話をもらって、パリのあるひなびた酒場に集合する。しかし手紙の主は約束の時間になっても来ない。そればかりか酒場の主人も姿を見せない。不審に思って二階にある主人の部屋に押し入ると、主人はすでに殺されていた。

警察の調べによると前の晩にはすでに殺されていたらしい。そしてたんまり貯め込んでいたらしい現金はスッカリ姿を消していた。さて、犯人は集められた五人の中にいるのか。それとも?

江口雄輔氏の指摘によれば、久生十蘭の(十蘭名義での)長篇第一作『金狼』は、この『真夜中の伝統』を下敷きにして書かれたそうだ。なるほど舞台を日本に変えてはいるが、ストーリーとキャラクターはほぼ同じである。笑ってしまうくらいに同じである。ただ犯人の設定が違う。十蘭のほうが一ひねりひねって(Turn of the screw!)、より推理小説的に仕上げている。そしてもう一つ大きく違うところがあるのだが、テーマの根幹に触れることなのでここには書けない。

また『金狼』のほうが、人間性の卑俗の中の高貴ともいうべきものがうまく描かれていて、その分ラストの悲劇性が濃い。換骨奪胎の名手十蘭の面目躍如といえよう。

ハンチバック


 

今回の芥川賞は市川沙央氏の『ハンチバック』という作品に決まったという。おめでとうございます。

それとはまったく関係ない話だが、このハンチバック (ドイツ語のBucklige) という言葉ほど翻訳するときに困る言葉はない。このことは『イヴのことを少し』を翻訳していたときに一度書いたが、今翻訳している小説にもまた出てきた。どう訳せはいいだろう。それにしてもなぜ自分の訳す小説にはハンチバックの人がよく出てくるのか。これも前に一度書いたかもしれないが、単なる怪奇趣味だけで出すのは本当にやめてほしいと思う。悪趣味ではないか。

そういえばむかし、池田満寿夫が澁澤龍彦のことをこのハンチバックの印象があるとどこかに書いたあと、澁澤が気を悪くしたら困ると思って電話で謝ったら、澁澤は「精神のことじゃなくて肉体のことだから気にするなよ(大意)」と答えてカラカラと笑い飛ばしたという。

それはそうと、最近翻訳されたある小説を読んでいたら、このハンチバックの人が「〇〇〇」というひらがな三文字で出てきたのでちょっと驚いた。それも一人ではない。730人も出てくる。ノートルダムの鐘つき男もびっくりである。

ベルギーのペルッツ?


 

ベルギー幻想小説の世界は、ジャン・レイやトマス・オーウェンなどごく一部を除いてはまだまだテラ・インコグニタが広がっている。つまり本邦未紹介の作品がやたらに多い。それでもワロン語(≒フランス語)圏はまだましで、フラマン語(≒オランダ語)圏となるとまったくの未踏の荒野といっていい。かくいう自分もオランダ語に習熟したあかつきには、フラマン語圏幻想小説のせめて三作くらいは翻訳紹介したいと思っているのだが、生きているうちにできるかどうか……

さてこの『時間への王手』は、ワロン語圏幻想作家マルセル・ティリーが1945年に発表した作品で、おそらく初の長篇邦訳である。一読して「この人はベルギーのペルッツではないか」と思った。歴史上の奇譚をあつかう手つきにペルッツを思わせるものがある。

主人公は事業不振で破産した鉄鋼商ディウジュ。彼はいま独房にいて、自分の数奇な体験を回想している。その回想によると、ふと思い立ってやって来たベルギーの海岸地オステンデで、彼は学生時代の旧友アクシダンに再会したという。アクシダンの紹介でディウジュはイギリス人の科学者ハーヴィーを知る。

ハーヴィーの先祖はウェリントン麾下の一兵士であった。この先祖はワーテルローの戦いでナポレオン軍と戦ったとき、ナポレオンに勝利を許した元凶として非難されていた。それをどうしても承服できない彼は、時間をさかのぼる機械を独力で作り上げた。(もちろんわれわれの知る史実では、ワーテルローの戦いでナポレオンはウェリントンに敗北している。だがディウジュの回想によると、もともとナポレオンは勝利していたのだが、ハーヴィーが歴史を動かした結果、われわれが今知るようにナポレオンは敗北したのだという)

ここで問題になるのは、この主人公ディウジュの回想全体が事実なのか、あるいは妄想なのかということだ。いわゆる「信頼できない語り手」である。なにしろ過去を書き換えたおかげで、証拠はきれいさっぱり消えてしまっている。妄想か事実か、どちらとも決め手はない。

だが今のSFに慣れた目で見ると、看過しがたいタイム・パラドックスが放置されていて「その嘘ホント?」と言いたくならないでもない。

どれだけ悔恨してもしきれない過去の事実を、途方もない妄想を膨らませて埋め合わせようとする衝動は、『最後の審判の巨匠』や『聖ペテロの雪』を思わせるものがある。その「過去を承服できない気持ち」は、事業を傾かせた主人公にもともとあったのだが、それが同様の感情をかかえたハーヴィーや下宿の管理人リザへと、主人公の妄想の中で分裂したのではあるまいか。

なかでもリザのエピソードは哀切で、しみじみと作品世界にひたれるこの小説の効果をひときわ高めている。

『すばる』の『テュルリュパン』評


 

『本の雑誌』の「図書カード三万円使い放題」で『テュルリュパン』を買ってくださった佐藤厚志氏が、『すばる』7月号の「読書日録」でこの本を評してくださいました。

「前半のドタバタコメディから上流階級の陰謀まで一冊に凝縮させる巧みな構成と演出に舌を巻いた」という一節はまさに訳者冥利に尽きる評でした。どうもありがとうございます。

名連載の有益性


 


これは前にも書いたかもしれないけれど、連載小説をリアルタイムで読んでいく楽しさはまた格別である。というのは、次の号が出るまで、これからストーリーがどう展開していくかをノンビリ考える時間があるから。

たとえばほら、「読者への挑戦」がある推理小説ってあるじゃないですか。でもいくら挑戦されても一か月考えることはありえない。しかしこれが連載だといやでも一か月待たされる。ましてや『紙魚の手帖』は隔月刊である。これからどうなるのかな……と楽しみに待つ時間はたっぷりある。

思い起こせばもう何十年か前、『幻影城』に泡坂妻夫の『湖底のまつり』が連載されていたころ、次の号が出るまでのあいだに「ああかなこうかな」といろいろ考えて作者のたくらみを見破れたことがあった。もし単行本で一気に読んでいたらそんなことはとうてい不可能だったことだろう。