「記憶の暮方」について(3)

(承前)
「記憶の暮方」と「アムネジア」とはどちらも物語の消失、そして墜落のイメージで幕を閉じる。

一枚の紙、一冊の手帳、一冊の本。
 
必死になって手を伸ばしても、届かない。つかめない。
 
記されている文字や記号がちらちらと明滅するけれど、繰り返し墜ちていくうちに、白熱する空間がすべてを灼き消していく。[…]
 
本当の物語は失われてしまった。あるいは最初から存在しなかった。今回の物語の頁が閉じられるとき、この地上のどこにも戻るべきところなどなく、ただ、同時に天と奈落に向かって繰り返し、繰り返し墜ちていくしかない。ほとんど不可能というところまで目を瞠(みひら)いたが、もはや何も見えなかった。(『アムネジア』 pp.240−241)

[…]そして十五年後にもう一度見出した空の色は、伝説や文学作品のように親しいものではない。懐かしいものではない。
 
歓喜のような高揚があった、消えさろうとする色を無念に感じたと、後から想起されもした、だが違う。果てしなく恐ろしかった。いきなり足場が何もなくなって、墜落するときの、驚きと恐怖と、もう終わりだと覚悟しようとしてもしきれない足掻きの見苦しさまで胸苦しく蘇る。
 
周囲に沢山の物語を従わせながら、そこだけが意味のない場所だった。それが耐えがたかった。だが、少し時を置いて、意味のない場所、と名づければもう物語になった。それでようやく心からその消失を惜しむことができた。[…](「記憶の暮方」 p.96)

 
見るとおり、一方では物語がまったく失われ、もう一方では「意味のない場所」と名づけることによって意味のない場所は「物語」と化している。ここだけ読めば「記憶の暮方」は「アムネジア」と違ってハッピーエンド、といって悪ければ、窮地からの脱出で終わっているようにも見える。だがたぶん違う。おそらく両者は同じ地点に到達している。

上の引用にあるように、「アムネジア」で失われた、あるいは最初から存在しなかったのは物語一般ではない。「本当の物語」だ。一方、「記憶の暮方」では、引用文のすこし後に、「韻律に侵食され語らされることは喜びである」とある。つまり、主人公が身をおいているのは、「韻律に侵食され語らされた」ところの物語である。だから「本当の物語」(そんなものがあるとすれば)からは見捨てられている点では同じなのだ。

『アムネジア』の著者、稲生平太郎は『何かが空を飛んでいる』で、こんな風に書いている。

ところがである、近代以降、[…]現実と非現実を弁別しないような世界認識はいかん、という世の中になってしまったんだ。しかし、現実を引き裂くような何か、境界線を侵犯するような何かはやっぱりあるんだよね。こういった認識のゆらぎを痛撃するかのように裂け目から噴出するものが、百年前には死者の霊というかたちをとり、現代では円盤というかたちをとるのだと、僕は思う。あるいは霊や円盤と認識されると言うほうがいいのかもしれない。(p.190)

「死者の霊」や「円盤」といった分かりやすい衣を着せて「境界線を侵犯するような何か」を描くのはたやすい、こともないだろうが、少なくともその種の幻想文学は枚挙にいとまがないほどある。日本に限っても、『日本幻想作家事典』という大著をなすほどある。しかしいかなる衣をも拒否して、「狂気」という最後のエクスキューズをも拒否して、「現実と非現実を弁別しない」作品は、わが寡聞のせいもあるだろうが、ほんとうに少ない。そんななかにあってこの二作品は燦然と輝く例外だ。