『さよなら、愛しい人』

 
チャンドラーの『さらば愛しき女よ』はむかし清水俊二訳で読んだときはあまり感心しなかった。

マーロウは例によって行方知れずになったある女の捜索にたずさわる。しかし最後に判明するその女の正体は、陳腐とまでは言わないにしても、かなり定石的なものである。そもそもあんな小さな町で、整形もせずに、長く姿を隠していられるわけもなかろうと思う。それに後ろ暗いことは何もしていないのになぜ恐喝に屈したりするのか。

それからマーロウの押しかけ助手になるアン・リオーダンという娘が、今でいえば男性向けライトノベルのヒロインみたいなステロタイプなのもちょっとどうかなあと思った。わざとらしくマーロウに接近するのだから、なんかこう、隠された裏の目的があってほしかった。もしかするとハードボイルドの読み方がわかっていないのかもしれないが、普通の推理小説として評価すればそうなる。

ところがふと魔がさして(というわけでもないけれど)村上春樹訳で読み返してみたら、印象がかなり変わった。チャンドラーの清水訳と村上訳のどちらが優れているかは一概にはいえないし、そもそもそんな比較に意味があるのかという気もするけれど、この『さよなら、愛しい人』の場合は村上訳で読まないと真価はわからないと思う。

小説の終わり近くで、女がある男に向けて拳銃をぶっぱなす。この女がこの男を心底から嫌い抜いているのが、この一瞬のシーンで閃光に照らされたみたいに明らかになる。太宰でいえば「カチカチ山」のラストみたいな感じだ。この「カチカチ山」のタヌキのモデルは田中英光だという説がある。そういえばこのシーンで拳銃で撃たれる男にもカチカチ山のタヌキ、あるいは田中英光めいたところがある。ああそうか、この人はこの男に再会するのが嫌なばかりに、恐喝にも屈したのであったか!

そしてタイトルになっている「さよなら、愛しい人("Farewell, my lovely")」とは、その女が(「その男が」ではないことに注意!)死ぬまぎわに胸のうちでつぶやいた言葉にちがいない。もちろん作中にはそんなことは一言も書かれていない。しかしどうしてもそうでなければならない。最後にマーロウがこの女が本当は誰を愛していたかを推理する、その推理が正しいなら、そうならざるをえない。

そもそもあの撃たれた男に「さらば愛しの女よ」なんてかっこつけたセリフは似合わない。あの男が死ぬ前にひとこと言い残すとしたら、太宰の「カチカチ山」なみに、「惚れたが悪いか!」、これでなくてはいけまい。

だからこれを清水流に「さらば愛しき女よ」と訳すのは、この小説を理解していないとんでもない誤訳だということになる。

それにしても最後のこのマーロウの推理はかなり意外なものだ。事件の真相よりずっと意外といってもいい。あまりに意外なものだから、清水訳で読んだ昔の自分は「また適当なことを言いやがって」とあっさり読み流したのだと思う。

ハードボイルドは男の物語だというのが定説だけれど、ある場合にはそれは女の物語でもある。それをわからせてくれた村上春樹訳に感謝したい。