黒鳥忌に寄せて

 
「黒鳥忌に寄せて」というものの、黒鳥忌すなわち中井英夫の命日は十二月十日だったから、もう二週間くらいも過ぎてしまった。

『虚無への供物』をはじめて読んだのは高校生のころ、講談社で文庫になったときだった。当時SFマガジンで連載されていた石川喬司の「SFでてくたあ」に「〇〇が犯人の伝説の推理小説巨編」とか書いてあったので、大いなる期待をもって読んだ。しかし読了後はたいそう失望し、「わけわからん!」と叫んで本を放り投げたのを覚えている。

 それから半世紀ほどの歳月が流れたが、今もって「わけがわかった」とはとても言いかねる。わからないところはまだいろいろある。たとえば橙二郎殺しの一件もそうだ。最後の真犯人の告白によれば、その動機は「橙二郎を殺せ」という電波を脳内で受信したからだということだ。何も悪いことをしていない人を、そんな理由で殺していいのか! というのはひとまず置いといても、並み居る探偵役の面々がさしてそれを非難しないのが不思議ではないか。

 紅司殺し疑惑に対しては、「あなたがそんなことをやるなんて」と探偵役の面々は非難ゴウゴウだったのに、橙二郎の場合は、気のせいかもしれないが、「まあ殺されてもしかたないよね」みたいな雰囲気さえただよっているようである。氷沼邸が病院になるのがそんなに嫌だったのか。

 初読当時もそこに違和感があったが、今にして思えば、橙二郎の死はやはり事故であって、真犯人の犯行告白は妄想ではなかったろうか。そんな気がしてならない。なにしろ電波を受信する人だから、実際には行わなかった犯行を妄想しても不思議はない。そして精神が不安定な人と、探偵小説的解決を望んでやまない探偵役たちのマニアックな心情が共鳴作用を起こして、事故死を殺人事件にしてしまったのではないか。

 おそらくそれがわかっていたのは牟礼田俊夫ただ一人で、牟礼田は探偵小説マニアたちをたくみに操って、架空の殺人事件——橙二郎殺しを現出させたのではないか。そう考えてはじめて牟礼田の書いた作中作の意味がわかろうではないか。つまり牟礼田の小説では、実際には発生しなかった殺人事件が描かれるのだが、牟礼田は同じことを現実(小説内現実)でも行って、実際には発生しなかった殺人事件を発生したことにしたのであろう。

 何のために? もちろん「真犯人」の精神を安定させるためだ。一種の治癒行為といっていいかもしれない。「真犯人」が殺人事件を犯したと信じたなら、それで気がすんで、これ以上狂気は進行するまい、という考えだったのではあるまいか。