リーの貢献

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 『十日間の不思議』は『九尾の猫』や『悪の起源』よりずっと優れた作品に思われる。中心アイデアは『悪の起源』に劣らず突拍子もないものだが、舞台と人物がそのアイデアにしっくり溶け合っているからだ。近隣との交渉もあまりなさそうな地方都市に植民地開拓以来の旧約的心情が残っていても不思議はないし、家父長制の権化ともいうべき妻や子に極度に抑圧的な人物だっていかにも存在しそうである。ライツヴィルのこういう一家でこういう犯罪計画が企てられるのは、言ってみればアーカムにダゴン秘密教団があるのと同じくらいに自然なものに思える。

 意識喪失のプロットへの絡め方については、江戸川乱歩がはるか以前に同工のアイデアを使っているので、日本では若干サプライズが減少されるかもしれない。でも別にそれはクイーンの責任ではない。

 この物語の主人公ハワードは保身のために友人エラリーを裏切る卑劣な男である。主人公がこういう人物では、読者の共感は得られないのではないかとリーは懸念した(4月16日付の手紙)。「君はどうやったら弱い人間に共感できるというのだ[……] 僕には答えが見えてきた。ハワードに共感を得させる唯一無二の可能性は[……]」(本書 p.83)。

 ここでリーはこの作品に本質的貢献をしていると思う。リーにこの「答え」が見えなかったら『十日間の不思議』は傑作にはなりえなかったのではないか。しかし訳者あとがきで紹介されているダネイの手紙によれば、ダネイはこの「精神分析的」な処置に大いに不満であったという。なかなか難しいものであるが、この作品では共作がプラスに働いたことは疑うべくもないと思う。

 あと驚いたことには、ダネイはこれを「エラリー・クイーン最後の事件」にしようと考えていたらしい。『レーン最後の事件』の二番煎じはできないので「間違う名探偵」にしたらしい。幸いにしてそうはならなかったわけだが、『九尾の猫』のラストの謎のようなセリフは、ダネイのこの決意と絡めて考えればいっそう味わい深いものになるような気がする。