一本の毛の問題

 先に触れた『ドラコニアの夢』には、「江戸川乱歩『パノラマ島奇談』解説」も収録されている。これは角川文庫が宮田雅之の切り絵を表紙にして乱歩を出し始めたころ、その一冊に付されていた解説で、久しぶりに懐かしく読んだ。

 「『パノラマ島奇談』は、乱歩の夢想の最もストレートに開花した、稀に見る幸福な作品」だと、澁澤はこの作品を賞讃している。だが結末の処理には不満を漏らす。いわく、「最後に探偵が、コンクリートの壁から出ている千代子の髪の毛を発見するのは、いかにも取ってつけた感じである」

 そしてこう思っているのは澁澤ばかりではない。当の作者である乱歩自身も、自作解説で「むろん髪の毛など発見されないほうがいいのだが」と書いている。(ただし記憶によるので正確な引用ではない)

 このように、この一本の髪の毛は作者と澁澤の両方に排斥されてはなはだ分が悪いのだが、しかし他方で、この毛を擁護する一派もあることは心にとめておくべきだろう。

 まずは全集刊行中の夢野久作。かれはパノラマ島に失望して、ある随筆のなかで、「私としての収穫は、コンクリートの柱から引き出された女の髪の毛一本だけと云ってもよいのでした」と書いている。久作にとってこの作品の価値は、髪の毛一本だけにかかっているらしい。

 それは竹中英太郎もたぶん同じだ。かれの「大江春泥作品画譜」のなかには、「パノラマ島」を模したタイトルのものが含まれているのだが、そこに描かれているのは、パノラマ島のさまざまな大仕掛けではまったくなくて、円柱から生え出た一本の髪の毛にしかすぎない。英太郎もまた久作と同じく、パノラマ島の一番の衝撃は髪の毛だった一人なのだろう。

 つまりこの一本の毛を是とするか非とするかで、世論は二派に分裂している。

  1. 髪の毛排斥派 澁澤、乱歩
  2. 髪の毛支持派 久作、英太郎

 わたしはいえば一も二もなく支持派である。これは他の作品でいえば「恐ろしき錯誤」にも通じる、「手抜かりのスリル」ともいうべきものだ。完全犯罪を志したものが「アッしまった!」と事後に思うときの強烈なスリルである。それから「白昼夢」に出てくる産毛のような、ありえないものをとつぜん目の当たりにするスリルでもある。

 「……かたわらの大円柱の表面の蔦を分けて、そのあいだに見える白い地肌から、優曇華のように生えている、一本の髪の毛を見せました」――この「優曇華のように」という果敢ないイメージは(少しあとの「一輪の牡丹の花」とならんで)、パノラマ島のどんな見世物よりも恐ろしくすばらしいものだ*1。英太郎が絵にしたくなるのも実によくわかる。

 ところが最近『乱歩謎解きクロニクル』を読んでちょっとまた考え方が変わった。この本の中には例の名文句「うつし世は夢、夜のゆめこそまこと」に関する考察も含まれている。中相作さんの説によれば、これは世間一般で思われているように「うつし世」を排斥したものではないという。両者の相補的関係を表したものだという。

 するとパノラマ島の見世物と髪の毛もまた相補的関係にあって、どちらが失われてもたぶん作品は成立しないのだろう。それは二十面相の数々の所業と遠藤平吉というその本名が、拮抗対峙する関係にあるの同じものだと思う。

*1:【追記】後で思い出したが、結末で出てくる露天温泉に浮かぶ手首も悪くない。