とある碩学が澁澤龍彦の初期の訳文をこんなふうに批判している。
「外面如菩薩内心如夜叉とは、あたしのことなんだから(tu sais que la fausseté s'allie avec mon masque et mon caractère.)」
澁澤訳は、成句をつかいそこねて原意を伝えず、有害な仏臭さだけが目立つので、二重の失敗である。直訳は〈あたしの顔つきや性格と結びついた虚偽性を知っているわね。〉だから、〈あたしの顔つきや性根がひとを騙すのにぴったりなのはご存知でしょ〉とでも改めるべきである。
ここであげつらわれているのは『悪徳の栄え』のなかのジュリエットのせりふだ。澁澤訳のやんちゃであどけない感じも捨て難いけれど、一般論としてはこの方の言う通りだろう。
ところでいまスペインを舞台とする小説を翻訳している。その関係上西和辞典をときどき覗くのだけれど、過日そこで驚くべき発見をした。これはぜひブログに書かねば!と思った次第だ。
スペイン語の成句に"tomar las de Villadiego"というのがある。とある西和辞典でこれを引くとこんな風に出ている。
なるほどね、と思って、しかし念のために別の西和辞典を見ると、
ちょっとニュアンスが違ってきた。
でもこのくらいのブレは、(英和以外の独和仏和などの)〇和辞典には、ありがちなことである。先行辞書の敷き写しをせず、各辞書が独立独歩の気概を持っているのは頼もしいことでもある。同時に〇和辞典の限界というのもこの例は教えてくれる。言葉の意味を正確に知りたければ、〇和でなく〇〇(この場合は西西)を使わなければならないことも。
まあそんなことはどうでもよろしい(澁澤愛用フレーズ)。驚くのはこれからだ。特に名を秘す第三の西和辞典を見ると、なんとこんな記載がされている。
おおっ! 辞書の記載としてこれはどんなもんだろう。かの碩学に倣っていえば「和臭」が漂いすぎているのではなかろうか。まあ澁澤さんなら喜ぶかもしれないけれど……