だれもが20則を愛していた

 
おそるべき見立て殺人の物語『だれもがポオを愛していた』の作者である平石貴樹氏の『アメリカ文学史』は、いわゆる主流文学(厳密に言えば小説)の通史であるので、娯楽小説はたまにしか出てこない。その中でヴァン・ダインに3ページを割いているのが目を引く(ちなみにクイーンの記述は6行)。しかし奇観ともいうべきことに、作品は一行たりとも論じられておらず、もっぱらあげつらわれているのは例の「推理小説を書くための20の規則」なのである。「当初から厳密・狭量すぎる部分があると評価されてきたが、その骨格は、現在までほぼ有効である」という評価がなされている。

もしアメリカ人がアメリカ文学の通史を書いたら、そこでも20則は言及されるのか、それはよく分からない。だがもちろん日本人には日本人なりの史観があっていいわけだ。アルゼンチン人ボルヘスのアメリカ文学史にはヴァン・ヴォークトとか出てきたりするから……。

かくて20則は、『アメリカ文学史』ではオーソドックスとして扱われているが、それは本当にそうなのだろうか。ヴァン・ダイン本人が20則に反した作品を書いていたということから考えると、オーソドックスというよりは、どうもパラドクックスである疑いが濃厚ではなかろうか。だって、「よけいな情景描写や、わき道にそれた文学的な饒舌は省くべきである」っていったいどの口が……。

ただ、一口にパラドックスと言っても細かく見るといくつかの層がある。『パラドクシア・エピデミカ』の序文を横目で見ながら腑分けしていこう。

第一の層は、通説(オーソドックス)に対する異説(パラドックス)である。すなわち、ハラハラドキドキの他愛ない扇情小説だよ、という当時の「通説」に対する、いやこれは知識階級の読み物でうんぬんという「異説」なわけだ。この場合、時代が変わればパラドックスがオーソドックスと化すこともある。「これは昔こそパラドックスだったが、いまや時代がその正しいことを示す」のである。

もし20則がそれだけのものならば、やがてそれはまた他のオーソドックスにとって代わられ忘れられるだけの運命をたどったことだろう。現に『アメリカ文学史』においても、パズル主義への反発が新ジャンル「ハードボイルド小説」を産み出したという指摘がある。しかし仄聞するに、この20則、いまだに信奉する人がいるというではないか。だから単にそれだけのものではないのだ。

二番目の層として修辞的(レトリカル)なパラドックスがある。ヴァン・ダインの実作品から想像するに、彼には、20則を厳密に遵守すれば箸にも棒にもかからぬ索漠とした作品しか生まれないことは、分かってはいたのだろうと思う。なにしろ「スマート・セット」を編集したくらいの人なのだから。

その馬鹿馬鹿しさは百も承知で、愚にもつかぬルールを黄金律としてあえて押し出す。そのことにより現状になんらかの揺さぶりをかけることを狙う。その点では、20則は、たとえば、(その馬鹿馬鹿しさが分かっていながら)あえて馬鹿を賛美するエラスムスの『痴愚神礼賛』からそう離れたところにはいない。

エラスムスの書が時代への風刺であったがごとくに、20則も、当時の風潮に我慢がならなかったヴァン・ダインの修辞的パラドックスであったという可能性もあるだろう。

三番目の層として自己言及のパラドックスがある。

これはいかなることかというと、ヴァン・ダインの推理小説は20則に抵触している部分がある。つまり彼の推理小説は、20則を脇において見ると、「これは推理小説ではありません」と主張する推理小説である。「これはパイプではない」と題されたパイプの絵のようなものだ。

彼が美術批評家として活躍した時期は、シュールリアリズムの全盛期と微妙にずれているようだし、彼自身がそのパラドックスにどこまで意識的であったかは分からない。だが一筋縄ではいかぬ屈折した人のようだから、もうすぐ出るという伝記を読めばいろいろ面白いことが出てくるような気がする。