植草甚一の魅力とは

 久しぶりに本屋に行くと植草甚一の代表作が復刊されていた。少し前にはスクラップ・ブックが(月報をも含めて!)全冊覆刻されたし、没後数十年を経ても植草人気はまだまだ衰えていないことを物語っている。それは必ずしも団塊世代の読者のノスタルジーだけではないと思う。

 植草甚一の文章の魅力とは何か。人によって答えは違おうけれど、やはりそれは圧倒的にコラージュの魅力だ。植草甚一がマックス・エルンストの作品に出会ったとき感じたであろう衝撃は、僭越きわまる話だが、幾分共感できる気がする。

 幾多の植草本を飾る自作のコラージュ作品は有名だけれども、彼がコラージュの対象としたのは絵ばかりではない。それはしばしば文章にも使われて、素晴らしい効果を生み出した。たとえば次のような一節:
 

弟のシモンズは一九五〇年に「A.J.A.シモンズ――その生涯と投機事業」 A.J.A. Symonds; His Life and Speculations という伝記を発表し好評を得た。「コルヴォ」というのは本名をフレドリック・ロルフ Frederic Rolfeといい、同性愛のため教会から破門されると、コルヴォ男爵と自ら名乗って有名な小説「ハドリアン七世」 Hadrian the Seventh (1904)を書いた文人である。この法皇ハドリアン七世については最近フランスの女流作家マルグリット・ユルスナールも長編にして話題をまいたが、コルヴォ男爵はまた四年まえに初めて公にされた発禁書「欲望と追及の総体」 The Desire and Pursuit of the Whole の作者としても有名である。(『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』 p.422)

 
 "A.J.A. Symonds; His Life and Speculations"も、"Hadrian the Seventh"も、"The Desire and Pursuit of the Whole"も読んでいないことを赤裸々に暴露しているこの文章を読んで、ある人は頭をかかえ、ある人は一知半解とか知ったかぶりとか罵ることだろう。そういう輩は植草甚一の魅力とはついに無縁だ。だってそれは、『百頭女』を前にして遠近感が狂っているとか剽窃だとかいうようなものだから。

 こういったコラージュ技法は賦活剤として、あるいは魚介類の鰓のような働きをして、彼の文章に絶えず生気を与えている。同時代のエッセイストやコラムニストと比べて彼の文章が今なお新鮮なのは、そこに秘密があるに違いない。