『冠詞』の復刻によせて

「ドイツ語の神様」関口存男の天下の奇書『冠詞』が復刻された。彼の著書の中でおそらく唯一読んでいない本だ。なにしろ天下の奇書であるからして一冊五万円は決して高くはない。ただ自分に残された時間を考えざるをえない年齢になってしまったわたしは、これから先買うことも読むこともないと思う。

ところで二十年来頭にこびりついて離れない疑問がある。他でもない「関口存男の本を読んでドイツ語ができるようになるのか?」というクソナマイキ極まる疑いである。

もちろん外国語の習得には実践が第一であるから、水泳や楽器と同じように、教則本ばかり読んでもうまくならないのはあたりまえだ。しかし関口存男の文法書群、特に中上級者向けの本はそういうのとは次元の違う問題をはらんでいるのではないか。

つまり、関口文法書群が提示しているものは、ほんとうのところ、ドイツ語ではなく関口語なのではないか。ちょうど斎藤秀三郎の辞書に載っているのは実は英語ではなく斎藤語なのではないかと疑われるのと同じで、関口や斎藤の書を開くわれわれは、かのランドルフィの短篇で、船乗りからペルシャ語を教わった男と同じ運命に置かれているのではなかろうか。

なぜそうなるかについて私見をのべると、それはつまり、関口や斎藤のようにある言葉を、その全領域のみならずその潜在的可能性までを完璧に「分かって」しまった人は、おそらくは自分独自の(おそらくは閉じた)宇宙をつくってしまうからだ。
だって、ある種の人々の説によると、この世の言語をことごとく解読することは、神になることに他ならぬそうではないか。なんと大げさな、と思う人は、この『冠詞』をちょっと開いてみるといい。総毛がぞわぞわっと立ちまくることはまず間違いないだろう。

しかし神ならぬ人間がそういうことをしてしまうというのは、ピエール・メナールがドン・キホーテを書くようなものではないだろうか。周知のように、ピエール・メナールのドン・キホーテは、セルバンテスのドン・キホーテと一字一句違わない。だが、それにもかかわらず、ボルヘスが声を大にして力説するように、両者はまったく別物なのである。ひとことで言えば神のつくったものと人間のつくったものの差だ。セルバンテスのドン・キホーテが日々新たな生命を宿すのに対し、メナールのほうもそうなのかは必ずしも自明ではない。