文豪怪談・三島集を巡って4 (回る炭取の巻)

 
昔むかし、理科の時間には蛙の解剖というものがあった。(今でもあるのだろうか?――どちらかというとああいう残酷なことはやらない方がいいとおもうのだけれど――)
蛙の生臭さと麻酔用エーテルの混ざった独特の蘊気に包まれながら、われわれはいくつかの班に分かれて、あるいは粛々と、あるいは嬉々と、蛙の腹をメスで裂いていく。まだ生きているので心臓がぴくぴくと動いている。
女子はたいてい青ざめていた。だが拙豚はこの時点までは平気だった――なぜなら手元の教科書には、肺とか膵臓とか小腸とか丁寧な説明がついた図解があって、目の前の光景はそれにそっくりだったから、ふーんなるほどなるほどと思っていられたのだ。
ところがところが、いきなり腸の間から、深みどり色の小さな玉が現れた。教科書の図にはそんなものは載っていない。そこでいきなり気持ちが悪くなって――そのあとどうなったかは覚えていない。でもあの緑のぷよぷよした玉は今でも目に浮かぶ。

前置きが少し長くなったけど、「小説とは何か」の有名な「回る炭取」のくだりを読んだとき思い浮かんだのが、この解剖のシーンだった。
それは丸い緑玉と丸い炭取という形の上の類似もあるけれど、より本質的なのは、どちらも不意をついて現れるという点だ。

小説が元来「まことらしさ」の要請に発したジャンルである以上、そこにはこのような、現実を震撼させることによって幽霊を現実化するところの根源的な力が備わっていなければならない。……しかし凡百の小説では、小説と名がついているばかりで、何百枚読み進んでも決して炭取の回らない作品がいかに多いことであろう。炭取が回らない限り、それを小説と呼ぶことは実はできない。小説の厳密な定義は、実にこの炭取が回るか回らぬかにあると言っても過言ではない。

だから、このユッキー説はお説ごもっともではあるども、どこかで論理を踏み外しているような気がしてならない。
だってこのユッキー説だと、炭取が最初から回っていても、それは小説だということになってしまうではないか。
もちろんそんなのが小説であっても構わないのだけれども、しかしそういうものは小説ではあっても怪談ではない。
怪談であるためには、炭取ならぬ何かが予期せぬときに不意をついて回らなければならない。そして(今「炭取ならぬ何か」と書いたように、)回るのが何かを事前に読者に悟らせてはいけないと思うのだがどんなもんだろうか。