もういないルドルフ2世

 

 
 「ボディ・クリティシズム」はただいま第四章を読み中。ここらへんに至って、ようやく著者の言わんとするところが朧ろに見えてきたような気がする。(それじゃいままで何読んどったんじゃー! という突っ込みは無用に願います)

 それはミクロコスモスとマクロコスモスの痛ましい分裂である。ルドルフ2世の宮廷で幸わった汎知学(パンソフィー)はもう後を絶ってしまった。パンソフィーとは何か。それは複雑怪奇な迷宮として存在する現実世界を、何もかも丸ごとひっくるめて神のシェーマ(図解/計画)として捉え、それを読み解こうとする思想だった。だから彼ルドルフの驚異博物館ではいかなる畸形も怪物も相応の座を与えられたのだし、いかなる奇人変人も宮廷に出入りを許されたのだった。(ついでに言っておくと彼自身が変なものばかり好きな変人皇帝だったという考え方には今日では疑義が呈されている。エヴァンズの「魔術の帝国」を参照のこと)

 しかし「啓蒙の世紀」十八世紀はもはやパンソフィーを許さない。「何もかも丸ごとひっくるめて」の代わりに、切解(DISSECTING)とか抽象(ABSTRACTING)とか着想(CONCEIVING)とか徴化(MARKING)とかの、よく言えば知的操作が介入してくるようになる。


 第四章徴化(MARKING)において著者が論じるのは、皮膚病をその典型とする身体のある種の兆候は、十八世紀にマークされる、ということである。日本語でも例えば「あいつをマークしろ!」と言った場合、その「あいつ」はたいてい良い人や味方ではないが、この本の「有徴化」も、「この世にあるべきではないものとされる」というニュアンスを持っている。
かくて染みや皺やオデキなんかのある現実の身体は「あるべきではないもの」とされ、ミクロコスモスはマクロコスモスと分断されてしまった。「十八世紀人が十七世紀人から引き継いだ物と身体の宇宙の二極分化的なでき方が、深淵をのぞくような喪失感を、存在と非在の間を黒々と裂く深淵感覚を強めた。しかるに十八世紀が一方で新たに手にしたのが改革のさまざまなシステムで、これがより広大な研究分野に広がり、かつ深く浸透していったのである。(本書p.18)」

――いちおう著者の考えの筋道をそう理解しておくと、どうして本書が何人かのビッグネームに、おそらくは意識的に言及していないのかが分かるような気がする。

 たとえばゲーテ(1749-1832)だ。ほぼ同時代を生きたラファーター(1741-1801)が本書で徹底的に悪者扱いをされているというのに、その親玉ゲーテは、索引によればたった一箇所、それも単に名前だけが言及されているにすぎない。ラファーターみたいな小物に構ってる暇があったら、どうして本山のゲーテと対決せえへんの? この著者ちとコスいんとちゃうかと、どこの地方とも分からぬ方言をつぶやきながら読んできたのだが、今にして思えばその意図はなんとなく分かる。

 十七世紀の精神を色濃く残したゲーテはパンソフィアの人であった。だからゲーテよりも、その一部が凝り固まったラファーターの方がより十八世紀的だと著者は考えたのであろう。あるいは自分の立論にはラファーターの方がより重要だと考えたのであろう。

 つまり、著者は十八世紀を遠く現代につながる始源と考え、それ以前の時代を思い切りよくスッパリ切り離しているのだ。現代二十一世紀のむちゅくちゃに発達したコンピューター社会を、たぶん著者は十八世紀から始まるある種の心象(著者の言う「新古典主義的」心象)の帰結と見ているのだろう。コンピューター社会のいきつく果ては十七世紀的か十八世紀的か(バロック的か新古典主義的か)というのは解答が出難い質問だとは思うが、著者の立場はおそらく後者だ。


 あるいは見方を変えればこうも言える。本書ではゲーテは、その人個人としては端役以下の人物としてしか登場しないけれど、実は(悲惨にも)二人の人物に分裂して主役を張っているのだと。その一人はラファーター、そしてもう一人はリヒテンベルク (1742-99)である。まるであのカルヴィーノの名作を思わせる笑うに笑えない光景ではなかろうか。