大家にのみ許されたワザ

 
ありな書房はマリオ・プラーツの「ローマ百景」という本を1999年に出した。そして今回、同著者の「ローマ百景Ⅱ」が出た。「ははあ続編が出たのだな」と、誰しも思うことだろう。百人中百人がそう思うだろう。

しかしあにはからんや、この「ローマ百景Ⅱ」は「ローマ百景」の改訳本なのだった。訳文のわずかな違いをのぞけば両者の内容はほぼ一緒。ただし「ローマ百景」巻末にあった白崎容子氏のあとがきが「Ⅱ」では削除されて伊藤博明氏のあとがきに代わり、図版と索引が増補され、表紙の訳者表記も「白崎容子+上村清雄+伊藤博明」から「伊藤博明+上村清雄+白崎容子」と微妙に変わっている。(あそれから、値段も2800円から4800円に増補されていた!)

どうしてこういうことが起こったかというと、「Ⅱ」のあとがきにはこう説明されている。もともとプラーツには、「ローマのパノプティコン」と題する書評集が第一集・第二集と二冊あり、その第二集のほうが以前「ローマ百景」として訳出刊行されたのだが、今回第一集の方も訳そうということになって、急遽「ローマ百景」の方を「ローマ百景Ⅱ」と改題して出したのだそうだ。

それはともかく、のびやかな訳文でプラーツのエッセイが楽しめるのはありがたいことには違いない。なかでも冒頭に置かれた、旧プラーツ邸のあった通りの変質を偲ぶ「亡き街路のためのパヴァーヌ」はしみじみと迫る良い文章だ。「両側に立ち並ぶ建物が、まるでひとつの邸宅のなかにたたずむ部屋のような空間をつくりだしていて、ジュリア通りは、さながらその邸宅の中庭を突き抜けて、それらの部屋をつなぐ廊下、といった風情であった」(本書p.7)

本書に収められた文章は、多く書評として書かれたものだという。しかしたいてい書評の対象となった本は刺身のツマ程度の扱いしか受けていない。たとえば「亡き街路のためのパヴァーヌ」はルイージ・サレルノ他著の『ジュリア通り――十六世紀都市のユートピア』への書評として書かれたはずなのだが、このエッセイの中で当該書は「ちなみに、この通りに捧げられた最新の書物『ジュリア通り……』が結論としているのは……(p.10)」と、「ちなみに」言及されるだけなのである。こういう書評の書き方もあるのか〜

原稿依頼側の趣旨を無視して自分一箇の感慨に悠々とふける。まことに大家にのみ許されたワザには相違ない。