わるいことをするとおまわりさんがくる

恋愛中毒

恋愛中毒

  
ひょんなことから読み始めたら止められなくなりそのまま最後まで読んでしまった。傑作だったのは単行本で217ページのシーンで、ここに至ってはじめて、ああこの本を読んでよかったと思った(それまでは半信半疑で読んでた)。しかしストーリーが暴走をはじめるのは実にこれから先なのだった。まずい。山本文緒ファンになるかもしれない*1。「恋愛中毒」と洒落たタイトルがついているが、恋愛中毒とは昔風に平たく言えば情痴とか痴情とかいうのものだ。お前ら何考えとるんや〜と言いたくなるような唖然とするラストは、たぶん情痴小説の文脈にしかうまくおさまらないのではないか。

ところでこの小説はラスト近くにサプライズがあり、伏線も張り巡らしてあり、ある種の犯罪を扱っている点で、外形のフォーマットから言えば一種のミステリーと言える……はずだ。ただ犯人の一人称であって、探偵役は登場しない。それでも少なくとも犯罪小説とは言える……のではないか。
ミステリとして見たとき技法的に面白いのは、一人称でありながら、主人公=犯人の心の動きの描写にときどき故意の省略があって、(クリスティ某作品の「私はいくつか、しなければならないことをした」よりもっと省略されている) そのため唐突に動機の説明なしに犯行が行われる点だ。ハードボイルド作品の影響もあるのだろうか。

しかしやはりこの作品をミステリあるいは犯罪小説と呼ぶのはどこかしっくりこない。なぜそうなのかちょっと考えてみたが、たぶんそれは法感覚の欠如にあるのではないかという気がしてきた。法感覚というと大げさだが、要するに「わるいことをするとおまわりさんがくる。おまわりさんにつかまるのはいやだ」という気持ちだ。ミステリ作品の犯人たるもの、どんなヘボ悪党であろうと、この感覚だけは持っていてほしいと思う。それが犯行者に欠如してると、もはやそういう人の登場する作品はミステリと言えないのではないか。この「恋愛中毒」は謎で引っ張るタイプの小説でありながら、ミステリと呼ぶとおさまりが悪いのは、たぶんそのへんに原因があるのではないだろうか。
 

*1:その後「眠れるラプンツェル」を読み、これも結構面白かった。続いて一種のドッペルゲンガーものの「ブルーもしくはブルー」に取りかかったが、これはちょっと若書きすぎて途中で投げた。ということで山本文緒感染症も一段落したのだった