マッケンの失われた草稿

 
乱歩の一側面をうまく切り取ったアンソロジーである。この本で見られる乱歩は「理知的探偵小説」を目指した偉大な先駆者ではないし、巷間誤解されたところのエログロ三昧親父でもない。それでは何かというと、「スリル」の探求者としての乱歩がここに掬いとられているのだ。この切り口は、ありそうで今までなかったものではなかろうか(といっても、おびただしい乱歩文献を読破しているわけでもないので自信はないが……)。

乱歩の言う「スリル」がどんなものかは、集中の「スリルの説」を読めばわかる。「鏡地獄」にしても「芋虫」にしても、作者としてはこれまでにないスリルの創造を狙ったものらしいし、ルヴェルやマッケンへの一方ならぬ肩入れも、彼らの作品が醸し出す独自のスリルによるものだと思う。

ところでマッケンと言えば、ここで乱歩が紹介している「夢の丘」のあらすじは少しおかしい。もちろん「モクスンの人形」と「ダンシング・パートナー」を取り違えて紹介した乱歩のことだから、たぶんこの場合も"Things Near and Far"あたりと読後感がゴッチャになっているのではないかと一応は考えられるのだが……考えはできるのだが、いくらうっかりさんの乱歩と言えども、「夢の丘」のあのショッキングなラストを忘れるとはやはり考えにくい……

自分は一つの仮説を持っている。アメリカで出たKnopf版の「夢の丘」の前書きで、マッケンは、この小説の後半部は一度書いたものが気に喰わず破棄し、新たに書き直したと書いている。乱歩は田中早苗から借りて「夢の丘」を読んだのだが、田中早苗は何かの拍子で、この作品の初稿バージョンを持っていたのではなかろうか?

もちろん今に至るまでこの初稿は発見されていないので、これは妄想以外の何物でもないのだが、現行「夢の丘」最終二章の無残なラストを読むにつけ、もし初稿が残っていれば何としてでも読みたい気がしてならない。マッケンはこの作品のラストを現行の形に書き直すことにより、自分の中の最良の部分を殺したのではなかろうか。

百閒風に言えば、一度書かれた言葉が「讖をなす」ということがある。「夢の丘」以降のマッケンは二度と初期の熱狂を取り戻すことはなかった。「秘めたる栄光」の第五・六章や、限定三部の"House of the Hidden Light"までもが活字になっているのだから、「夢の丘」初稿だっていつかは日の目を見ることもあるのではなかろうか。それまでは死んでも死に切れん。